戦争憎悪の作られかた~敵の絶滅・原爆投下にいたる道

ジョン・W・ダワー『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』(John W. Dower, War without Mercy: Race and Power in the Pacific War, 1986)https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582764193/scholastilugd-22/ref=nosim より抜粋。
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ノルノル @nolnolnol

日本を空襲や原爆で無差別大量殺戮したことに対して、アメリカなど連合国軍が、当時問題と感じていなかったのは、開戦当初より日本軍の行った数々の殺戮行為と人種的偏見が混ざりあって構築されていたことが大きい。+

2016-08-15 23:20:47
ノルノル @nolnolnol

まず、真珠湾攻撃は大戦中を通じて日本の本質的「背信性」を示す顕著なシンボルとして記憶され、アメリカ人の復讐心をかき立てることになった。この奇襲攻撃が、アメリカ人の中に大量虐殺に対する憤怒に近い感情を呼び起こした。そこに「あの黄色いやつらが」という人種的偏見も加わった。+

2016-08-15 23:29:53
ノルノル @nolnolnol

+ただし、想像力と創造性に欠ける日本人があんな意表を突く軍事行動を計画し実行できるわけはないと多くの人は当初考えていた。裏でドイツが知恵を与えたに違いない。だから背後のドイツ人こそ倍も油断がならないと思っていた。+

2016-08-15 23:34:09
ノルノル @nolnolnol

+しかし、事実は違った。そうして日本の攻撃は人を後ろから襲う卑怯なやり方の代表的シンボルとして残り、日本軍はドイツ軍よりもさらに野蛮で極悪非道であるとみなすようになっていった。+

2016-08-15 23:36:36
ノルノル @nolnolnol

+また、1937年に日本軍が中国の都市に爆撃を開始したことも、当時の欧米にとって非常に大きなショックだった。今では想像しづらいが、アメリカは無差別爆撃を「一般市民を対象とした非人道的爆撃」として、一番非難し、いち早く爆撃に切り替えたイギリスよりも、その使用に慎重だった。+

2016-08-15 23:45:29
ノルノル @nolnolnol

+1937年7月に日中戦争が本格化したあと始まった日本の爆撃による中国人犠牲者の写真、ニュース映画が、欧米の人びとの感情面に与えた影響は非常に大きく、2つのイメージをくっきり焼き付ける結果となった。+

2016-08-15 23:48:31
ノルノル @nolnolnol

+1つは、日本人は女子供も見境なく殺す無差別殺人鬼であるというイメージと、そしてもっと一般的には、殺人技術が急速に発達した時代における全面戦争の恐怖というイメージを。+

2016-08-15 23:50:18
ノルノル @nolnolnol

+この日中戦争での日本軍の無差別爆撃と、真珠湾の奇襲が、アメリカに内在する人種的偏見と組み合わさって、まず「背信的で残虐な黄色いやつら」として憤怒と憎悪を醸成し、そしてその後の日本軍との戦闘を通じてそのイメージが増幅され、一切の交渉不可能な、「やるかやられるか」の敵と化していく+

2016-08-15 23:56:47
ノルノル @nolnolnol

+日本が敵国および大東亜共栄圏内のかつての同盟国においてまき散らしものは、「死と憎悪の種」だった。憎悪の最初は中国の都市爆撃だったが、それ以降、何か月、何年にもわたって、日本はむしろ自分から世界の非難を求めていった観があるほど、+

2016-08-16 00:03:14
ノルノル @nolnolnol

+日本軍の行為はあまりにグロテスクで気味の悪い方法を用いていた。そのために「邪悪な」国民性と表現され、解釈されていった。たとえば香港の路上での尼僧の強姦と殺害、マレーで拷問して絞殺したイギリス人の口に切り取った性器をくわえさせてさらしものにしたとか、+

2016-08-16 00:08:13
ノルノル @nolnolnol

+朝鮮や日本に駐在した宣教師を水責めにしたとか、話の種はつきなかった。日本の残虐行為の多くは、パル判事が主張したように、「血迷った行為だったのは明らかである。そしてこれらの行為は、連合国側に、日本国民全体を野蛮民族とするプロパガンダの普及に大きく貢献した。+

2016-08-16 00:12:23
ノルノル @nolnolnol

+日本の残虐行為については、いくつかに大別することができる。すなわち、非戦闘員の大量殺戮、捕虜の虐待や殺害、日常化した拷問、強制労働、医学的実験の名のもとに行われた制度化された殺人である。医学的実験以外の残虐行為は、広く報道された。+

2016-08-16 00:15:23
ノルノル @nolnolnol

+真珠湾以降、そうした事件の報道は英米政府が時期を見計らって、ここぞという時に意識的に利用するものとなった。そして最終的に、日本軍は、単に共栄圏内のアジア人のみならず、自らの同胞、自国民さえ、殺戮へと巻き込んでいった。+

2016-08-16 00:17:11
ノルノル @nolnolnol

+日本軍の大量殺戮の最初の対象となったのは、中国人だった。非戦闘員の殺害が大規模化したのは1937年。南京、漢口、広東、そして中国北部の「地方平定」と称し、農民を対象とする無差別殺戮へと広がる。+

2016-08-16 00:24:18
ノルノル @nolnolnol

+41~42年になると、反共「平定」作戦が、「焼き尽くす、殺し尽くす、奪い尽くす」の「三光」政策へと発展する。この期間、中国共産党が優勢だった地域で、逃散と死により人口が4400万から2500万に減少したと見られている。+

2016-08-16 00:26:36
ノルノル @nolnolnol

+中国以外でも、日本陸軍による大規模・小規模の殺戮は、共栄圏に組み込まれたすべての国々で報じられた。1942年2月にシンガポールが陥落すると、現地の華僑たちが日本軍の抑圧の対象となり、5000人以上が数日のうちに即座に処刑された。+

2016-08-16 00:42:36
ノルノル @nolnolnol

+ある者は首をはねられ、ある者は海で溺死させられ、またある者は機関銃や銃剣の的とされた。とりわけ日本軍による銃剣での殺戮行為は、アジアにおける戦いを報道した者たちの注目を浴びた。+

2016-08-16 00:45:23
ノルノル @nolnolnol

+アメリカの複数のプロパガンダ用映画でも、日本兵が赤ん坊を放り上げ、落ちてくるところを銃剣で突き刺すシーンをみせたものがあった。銃剣による犠牲者は、香港、シンガポールでも、医師、看護婦、入院患者にまで向けられたことが広く伝えられた。+

2016-08-16 00:47:48
ノルノル @nolnolnol

+42年4月のバターン死の行進の際には、何百というアメリカおよびフィリピンの兵隊が銃剣に倒れた。後日、ウィリアム・スリム将軍の軍隊が、木に縛り付けられ、やはり銃剣で突き殺されたビルマの村民を発見している。+

2016-08-16 00:50:31
ノルノル @nolnolnol

+大量殺戮にも様々な方法があった。機関銃を使うこともあれば、日本刀で斬り殺すこともあり、溺死させる場合もあれば、ガソリンをかけて焼き殺すこともあった。+

2016-08-16 00:52:09
ノルノル @nolnolnol

+ボルネオその他のオランダ植民地では、1942年はじめに100人を超えるオランダ人が殺害され、なかには手足を切断されて海に投げ込まれた者もいた。+

2016-08-16 00:55:13
ノルノル @nolnolnol

+フィリピンのマニラにおける最大の残虐行為のいくつかは、マッカーサーが同市の解放宣言したあとに起こった。それは日本軍最後の砦となったイントラシュロス地区の教会に捕らえられた1000人を数えるフィリピン人たちに加えられた拷問と死で頂点を迎える。+

2016-08-16 00:56:24
ノルノル @nolnolnol

+1942年のバターンから逃れ、45年に帰国したフィリピンの著名なジャーナリスト、カルロス・ロムロは、マニラが焼けただれた死臭を放つ、拷問と殺戮の町になっている恐ろしい様を伝えている。+

2016-08-16 01:01:06
ノルノル @nolnolnol

+「マニラの市街に山と積まれた痛めつけられた死体は、かつての隣人、友人のものであった。うしろ手に縛られ、銃剣で何度も突き刺されていた。小さな胸を滅多切りにされ、言葉なく私を見上げていた少女は、かつて息子と同じ学校に通っていた。牧師、女、子供、そして赤ん坊の死体があった。+

2016-08-16 01:01:59
ノルノル @nolnolnol

+生き残った者によれば、かれらはみな、敗れて血に飢えた狂気の兵隊たちの気晴らしの銃剣の犠牲になったのであった」。帝国陸海軍が守勢に回り、全戦場での敗北に直面するようになるにつれて、軍は自国民や仲間の命を奪いはじめた。それもぞっとするような自殺という形で。+

2016-08-16 01:05:29
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