丹生谷貴志ツイートまとめ(2016年9月)

丹生谷貴志さんの2016年9月のツイートをまとめました。
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nibuya @cbfn

「私は永遠のむかしから存在し、そしてついに私を廃絶することができるように、それをめざして私は生まれた」、不意にジュネ『判決』の訳本の腹帯・・・冷めた目で見ればジュネの世代のフフランス作家に共通の孤独にミュータント化されたヘーゲル主義?・・・しかしジュネのような人に体現されると・・

2016-09-06 06:27:07
nibuya @cbfn

如何なる時代・文化にも「芸術」と呼ばれるべきものが存在するという言明は十九世紀西欧に形成された「イデオロギー」であり、それは19670年後半において機能を終えたというマルローの認証を認めるとして・・・以降、「芸術」は消え去り「アート」が残り? 無論これは言葉の遊びに過ぎない。

2016-09-16 11:38:02
nibuya @cbfn

十九世紀の汎世界芸術論は「死に曝された生」という悲劇的意識を観念的分母とし、その悲劇性はやがて「nothingness」を巡るものへと薄明化し、七十年代に揮発する・・・とすれば、順序として「今や何が分母なのか?」が問となるのか、或いは分母という装置そのものが機能を終え・・・

2016-09-16 12:15:58
nibuya @cbfn

あらゆる叙述の述語が顕在・潜在的に「be動詞」であることに於て存在論が成立したとして、実際は「知っている」という隠れた辞こそが言明の本体、真の普遍辞は「知っている」という辞。例えば「世界は無意味であることを知っている」という言明に於て残るのは「知っている」という辞だけであり・・・

2016-09-16 12:53:42
nibuya @cbfn

一年ぶりの名古屋、全く興味を失っている「現代アート」情報やそれに絡まる「批評」をパラパラと見る機会。キュレーターの顔が新進起業家といよいよ同一化し、価格換算が「アート」の主要評価基準となりつつあることに僕は何ら批判気分を持たない。蕩尽のシミュラクル化の「歴史的必然」の平凡な進行。

2016-09-18 14:25:25
nibuya @cbfn

・・・・先日東京で、三十年ぶりくらいで会った叔母が『シン・ゴジラ』を見に行くんだと言い出す。彼女にとっては『ゴジラ』は第一作の「青春の記憶」、庵野コンセプト云々など無論知る気も興味もなし、失望しなけりゃいいけれど、と杞憂。

2016-09-24 23:52:15
nibuya @cbfn

余談。考えれば考えるほど、例えば爬虫類は「幸福感」以外のアフェクションを持ってはいないと思われる。とすれば爬虫類の突然変異体であるゴジラも幸福感以外のアフェクトを持たず、その中を移動する。スピノザが言うように(!)完全に充満した幸福感は凶暴さと矛盾しないet cetera・・・

2016-09-26 02:41:21
nibuya @cbfn

余談。例えばフーコー風を雑に要約、ルネサンス期は「ルッサンブランス」古典主義時代は「ルプレザンタシオン=オーダー」を時代のエピステーメーとし得るとして、20世紀後半から今は何かと白想し・・・例えば「統計=コントロール」? 経済学・心理学・政治学が同じ統計ソフトを使っている現実・・

2016-09-29 09:36:18
nibuya @cbfn

余談。丸谷才一に『恋の日本文学』の著があり、今更目覚ましい発見でもないが確かに「恋」以外に原理らしい原理を持たない文学伝統というのは特異といえば特異、要は「エロい」という死語を軽蔑なしに用いれば、村上春樹はその現代的洗練を成し蓮實さんの容赦無く真面目な戯作はそれを極化して見せ・・

2016-09-29 09:50:23
nibuya @cbfn

余談。人間は「記号」の外に出られぬ、これは原理的要件。ではギリギリまで膨らんだ記号の縁に今や我々はいるとすると僕らは「記号的危機」の世界にいることになるが、そうすると僕らは出口のない「記号的不安」の中にいるのか或いは「記号的膠着」の中に凝固しつつあるのか。まあどっちもどっちか・

2016-09-29 10:06:32