続報!「破斯清道」は正倉院文書「土師浄道」と同一人物か!?ペルシャ人では無かった日本の下級官吏はじのきよみちの17年後の昇進について
@s_hskz 「地下の正倉院展」によると、6年に1回昇進の審査があり、無位から30年無事に勤めても、やっと従八位下に到達できるだけだとありました。(毎年の勤務評価が「中中」か「中)だった場合)
2016-10-17 15:18:52土師(はじ)氏は、貴族の地位を保てなかった
@s_hskz 直木孝次郎氏の論文「土師氏の研究」(1960年)にも、律令時代の土師氏の前途は思わしくなく、とくに奈良時代後期になると、五位の貴族(五位以上が貴族)を土師氏から1人出すのにも苦労していたとありました。
2016-10-17 15:29:19@fushunia おお…… 貴人の葬儀が火葬に移行しつつある時代ですから土師氏の本来の職掌では食べていけない時代なのですよね、苦労が偲ばれます。
2016-10-17 15:23:01.@fushunia (続き)夢を追えば、そんなわけで、土師だなんて昔の職掌を表す時代遅れの表記なので、〈破斯〉に変えてみた……なんちゃって。 ※実際、菅原道真の菅原も、いまさら土師ではあるまいといった動機で改姓したのかもしれないですね。
2016-10-17 15:27:09あと、知られている「官位相当」は、おおよその基本でして、時々に変更されたこともありますし、今年の「地下の正倉院展」で10月31日まで展示されている「大学寮解」木簡では、従六位上の紀朝臣直人が「大学少允」(3等官のじょう)を務めていますが、「官位相当」は4ランク下の従七位上です。
2016-10-17 16:15:18こうしたことから、「はじのきよみち」は、
万葉仮名で「破斯」と書かれたと考えましたが、
「破斯」と書かれたのは、現在この木簡1例だけです。
10月31日までの「地下の正倉院展」第1期では、レプリカが展示されていました。
11月1日からの第2期で、本物が展示されるそうです。
(奈良県奈良市 平城宮跡資料館)
さいごに
元明天皇が713年に出した「好字(こうじ)令」も参考になると思います。これは地名についてですが、その言葉の本来の意味よりも、きれいな漢字を使うことを優先して、美しい言葉で地名を表記するようにと命令が出ています。
2016-10-17 15:24:21この「破斯」木簡は、記入ミスと見なされての廃棄物なのか?それともこういう風に書くこともあったのか?と疑問は尽きないですね。
2016-10-17 17:39:39時代背景が違いますが、漢字「醍醐」の書き方を忘れた祐筆に、秀吉が「大五」と書けばそれでよいと言ったという故事があります。この故事の信憑性はともかく、公式文書といえどアクシデントとか突発的な表記の揺れも有り得ると思っていました。
2016-10-17 17:44:18追記1
春日と書いて「かすが」と読むように、土師と書いて「はじ」と読むことも既に定着して久しかったので、この木簡の「破斯」表記はそれほど定着することも無く、知る人もいなくなって、そして今に至るということでしょうか。
2016-10-17 23:28:31@fushunia 歴史は二転三転すると言いますか、解釈も様々に出てくるのがこの学問の宿命ですので、「ペルシャ人か?」という発表も勿論、興味深いものでした。
2016-10-17 23:38:11追記2
土師浄道は748年、春宮(東宮)舎人として働いていました。「春宮」(とうぐう)は平城宮の東の張り出し部にありまして、東院庭園と門が復元されています。当時の皇太子はのちの称徳天皇(女性)で、父親は聖武天皇です。土師浄道はここで雑務に追われていたのかもしれないですね@fushunia pic.twitter.com/sRuCs144mL
2016-10-18 12:19:56