映画『聲の形』徹底分析

4回観て、分析してみました。これは一つの仮説です。もし、ご興味を抱かれたとしたら、ぜひとも、もう一度映画をご覧になって確認してみてください。
アニメ 映画聲の形 山田尚子 京都アニメーション 吉田玲子 聲の形
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富崎学 @manaboo2009
これから新宿ピカデリーで『聲の形』観ます。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』微妙でしたね。決して単純なストーリーじゃないし、登場人物達が皆、矛盾を抱え込んでいる難しい相関関係とか、それをうまくまとめ上げていて見応えは充分にあるんだけど、映画的には後退しているのではないか?さらに言えばこうした題材の映画で、音響に頼るような演出はいかがなものか?
富崎学 @manaboo2009
明日、映画『聲の形』をもう一回観てから、ちょっといろいろと書こうと思う。
富崎学 @manaboo2009
さて、これから新宿ピカデリーで映画『聲の形』2回目観ます。チェックポイントは、音響に惑わされない、です。
富崎学 @manaboo2009
まず山田尚子さんにごめんなさい。一回目は何も観えていなかった。この映画はすばらしい。まさに耳の聞こえない人に届く映画だ。音が聞こえないとわからない演出はほとんどなかったし、セリフ以外のところで流れているみんなの思考を読まなければこの映画はわからない。音がない方がわかる映画だった。
富崎学 @manaboo2009
やばい、山田尚子なめてた・・・
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』二回目観てよかったなあ。なんかひっかっかたんだよ、もう一回観ないでヘタなこと言っちゃいけないって、、、、観てよかった。とんんでもない勘違いをするところだった。だけど「『聲の形』はいいぞ~」なんて逃げ口上はアニメ分析家として口がさけても言わない!
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』映画は原初、耳の聞こえない人も楽しめる娯楽だった。映画はサイレントの時代に既に芸術の称号を獲得している。山田監督もサイレント映画の研究はもちろんされていることと思うが、僕自身、サイレントは子供の時にチャップリンしか見たことがないのでとりあえず比較できないことを、初めに。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』二回目観た後、僕もちょっと興奮しすぎて書きすぎたけど、音がなくてもわかる映画というのは言い過ぎ。硝子の声とか「台詞」とか聞こえないとわからないところはある。だが、音のあるないの二重性ははっきりあると思う。本作の音響効果は耳を劈くものがあるんだけど実はそれは重要ではない。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』だから僕もちょっと騙された(w)のかもしんないけど、音響効果は大きなもので最初、クライマックス、ラストの三回あるんだけど、その音響効果がなくてもわかるように映像が作られている。タイミングとか十分計算されている。特にラストの感動のピークは視覚的きっかけにシンクロしている。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』字幕問題については既にいろいろなところで話題になっているようだけれども、この聴覚障害者向けの字幕は単にセリフだけを文字化する洋画の字幕とは別種のものなのだけれど、本作につけられる字幕のセリフ以外の部分はかなり少なくてすむんじゃないか?視覚的にわかるようになっている。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』どうしても、映画的構成とか象徴的表現に目がいきがちなんだけど、まさに「映像が語るところ」を見落としていたことはアニメ分析家を自称する者として痛恨の極み。セリフ以外のところに耳を塞いでいた方が見えてくるものがある。その時静かに彼ら、彼女たちは何を考えいるかを考えることだ。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』ネタバレツイート、本格的に始めます。遅くまで起きてられないので、何日間かに分けて書くことになるけれどお付き合いください。これまでブログ等に僕が書いてきた分析はビデオで何十回も見直して書いたものなのでそこそこ自信あるものだけど、今回二回しかみてないのでそこんとこよろしくw
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』まず前提として、この映画は『あの花』と同じリ・ユニオンの物語であり、『あの花』を超えた、単なる小学生時代の仲間だけでない、その親類までをも含んだ徹底的な群像劇である。この群像劇であることが「障害者と健常者」というテーマを考える上で重要になってくるだろう。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』ポリティカル・コレクトネスの観点から言えば、これは「正しい」映画と言えないかもしれません。主人公は石田将也であり、障害者と心を通わせた健常者が自分を取り戻す物語だと思うし、西宮硝子が主人公であれば初めから字幕デフォルトの映画だったと思います。これが僕のスタンスです。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』それでも、あるいはそれだからこそ、聴覚障害者の方たちはこの映画絶対観たいと思いますよ。封切りからある程度字幕付き上映すべきだったというの正に正論だと思います。でも、『マイマイ新子と千年の魔法』が不入りで上映打ち切りになった苦い経験を考えるとやむをえなかったとも言えます。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』以上前提で、本論に入る。二回目鑑賞直後にツイートしたようにこの物語はある種の二重性を持っている。その二重性とは主人公石田将也の時間の流れ=これは本作の作品時間とほぼ同期しているわけだけど、それとは別に西宮硝子の時間も独自に流れている。それは意図的に見えにくくなっている。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』この西宮硝子に流れる時間に気付くことがこの物語の本質を見つける鍵となっている。だが、それはそう簡単にはいかなくなっている。冒頭の『My Generation』が典型的なミス・リードだろう。あるいは、西宮ユズルが少年として現れることも、本質は見た目ではないことのヒントだ。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』西宮硝子に流れる時間とは何なのか?それは単純に映像に表れている。目を凝らしてよく観ると、ある意味、わかりやすいかもしれません。具体的な分析は明日つぶやきましょう。僕にネタバレされたくない人は明日の夜までにもう一度『聲の形』を劇場で観てきましょう。一度とは言わず何度でも。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』西宮硝子に流れる時間とは何か?これが理解できれば、いじめられていた少女硝子が当のいじめっ子の将也を好きなってしまうのかもわかるようになるし、なぜ突然硝子が告白に踏み切ったのかもわかる。当然、なぜあの時、硝子が飛び降りようとした理由もわかるはずだろう。すべては水の中から。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』この映画は基本的に石田将也の視点で描かれている。だが、映画には西宮硝子の視点も存在している。その視点に完全に立ってみること。そうすることによって、彼女に流れている時間が見えてくる。一番わかりやすいのは高校生になった二人が久しぶりに邂逅を果たす重要なシークェンスだ。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』この再会のシークエンスは将也側の視点であり、硝子は客観的に描かれているのだが、この時にこそ硝子の視点にたって出来事を追っていかねばならない。手話教室に突然現れたかつてのいじめっ子。予想されるのはその後の植野との再会でも行われたいじめの再現だ。当然、硝子は逃げ出すだろう。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』将也に追いつかれた硝子が目にしたのは彼が返しに来た小学生の時の「筆談用ノート」。これを将也が返しに来たことに硝子は激しく感動する。それはなぜなのか?単純に懐かしかったからでは決してない。寧ろ忌まわしいノートになぜ感激するのか?そのノートは彼女が自ら放棄したものだからだ。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』そもそもなぜ将也がこのノートを持っているのか思い出そう。硝子へのいじめが頂点に達したのが将也がこのノートを小学校の池に投げ落とした時である。硝子はノートを拾うために池に入る。そのように将也には見えただろうし、映画を観る我々にもそう見えた。だが、本当はそうではなかった。
富崎学 @manaboo2009
『聲の形』いじめる側からいじめれる側に転落した将也が同じ池に落とされた時、池の底から硝子のノートを発見する。将也は不思議に思うがその理由は明白だ。硝子はあの時、絶望の中で、皆との交流のための大切な筆談ノートを拾うのではなく、池の底に自ら沈めた。そして妹に死にたいと訴えたのだった。
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