Lot.n歴史カフェ「義風一迅 東遊運動と独立の道」

フランスに植民地化されたベトナムが展開した独立運動は、日本に留学して教育水準を高めるという東遊運動(ドンズー運動)だった。 当初はアジア諸国を支援して列強の影響力を弱めるという国策をとっていた日本だが、日清・日露戦争に勝利して列強の仲間入りを果たしたことで国策を転換。アジアへの支援を打ち切っていく。 国としての支援は打ち切られたが、多くの日本人がベトナム人を支援して独立運動に協力したっていうお話。 ベトナムの歴史ってよくわからなかったけど、調べてみたら結構面白かった♪
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ホイアンの遠来橋

付近の日本人街と中華街をつなぐ橋。1593年に日本人が建造したと伝えられている。別名、日本橋とも呼ばれている。世界文化遺産の構成遺産でもある。

Moka Hirata @mokaaan

荒木宗太郎。朱印船貿易の商人。げん王朝の姫・ワカクトメを嫁にして、このお姫様は長崎で暮らしてたりする。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:49:06
朱印船 - Wikipedia

写真は、荒木宗太郎が使っていた荒木船。中国式のジャンク船にヨーロッパのガレオン船の技術を導入したもので、朱印船貿易には広く使用された。

Moka Hirata @mokaaan

こうちこく(現・カンボジアあたり)からオランダが象を日本に持ってきてたりもする。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:50:02

当時のベトナム情勢

Moka Hirata @mokaaan

当時のマレー半島は、北部のトンキン、東海岸の安南、南部のこうちこくに分かれていた。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:50:49

なんかいろいろ間違ってる(´・ω・`)

まずマレー半島じゃなくて、インドシナ半島な。

北部の「東京(トンキン)」は日本やヨーロッパからの呼称で中国からは「交趾国(コウチコク)」と呼ばれていた。ベトナム内では「北河」と呼ばれていたみたい。

中部にあったのが、安南じゃなくて「広南(カンナン)」。

そして南部にあったのは、コウチコクじゃなくて「チャンパ」。このチャンパとカンボジアの一部が、後にフランス領になるときにコーチシナ(交趾支那)となったから、ココらへんがごっちゃになってるかも。

この時代は後期黎朝と呼ばれ、ベトナムは戦国時代みたいな感じ。名目上の皇帝である黎(レイ)氏は在位したまま、北部を鄭(チン)氏、中部を阮(グエン)氏が支配し、勢力闘争を繰り広げていた。南部のチャンパ王国は192年から1832年まで続く由緒正しい王国。また別の民族で別の国。

1760年に印刷されたインドシナ半島の地図(オランダ製)

北部には「TON-KIN(トンキン:東京)」と「CANNAN(カンナン:広南)」、南部には「CIAMPA(チャンパ)」の表記が確認できる。中部は「COCHINCHINE(コーチシナ)」となっているが、おそらく誤記でこのエリアが「広南」。


Moka Hirata @mokaaan

トンキンの勢力が強くて、ベトナムあたりのグエン王朝は押され気味。で、フランス人のアドラン司教を頼って、フランスの支援をえて、ベトナムを統一した。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:52:39
ピニョー・ド・ベーヌ - Wikipedia

アドラン司教の本名。で、なんでアドラン司教なのかは、よく分からんwww


上からだいぶん流れを端折ったもんだから、説明。

上の地名説明で登場した広南国のグエン朝は、一度は西山(タイソン)朝に倒されてるのね。西山朝もグエンさんなんだけどさ。広南のグエンさん V.S. 西山のグエンさん。ベトナム、グエンさんが多すぎるんだよwww

ただ西山朝は24年間と短い王朝で、期間中ほぼ内戦状態だったから、西山の乱でまとめられる事も多いみたい。

さて、話を戻すね。

西山グエンさんに1778年倒された広南グエンさんだが、広南グエンの阮福暎さんだけは逃げ延びて、再び王朝を興す為に奔走するわけです。

北部を抑えていたトンキンの鄭氏は、西山の乱の一連の戦闘の中で1786年に敗走し、鄭氏政権は崩壊している。しかしまだ黎朝の皇帝は在位のまま。

で、黎朝の皇帝・黎愍宗さんは1787年に清国に救援をもとめたのね。これに清国が応じて20万から29万という軍勢をベトナムに派兵、いったんは黎朝を回復したの。でまぁ、いろいろあったんだけど、結果として、西山のグエンさんが清国軍を1789年に敗走させ、清国の敗走とともに黎朝の皇帝・黎愍宗さんも北京に亡命。黎朝はここに滅ぶことになったのよ。

で、また広南のグエンさん登場。

広南のグエンさんは1783年にアドラン司教に息子を人質に差し出してフランスの軍事支援を要請。アドラン司教はこの息子とともにフランスに帰国して広南のグエンさんを支援すべく、説得にあたったけど失敗。が、諦めないアドラン司教はポケットマネーで武器と兵士を集めた。武器って言っても、銃器だけじゃなくて軍艦とかも手配してる。

って、オマエはキリスト教の司教じゃないのかwいつから私兵団のボスになったwww
カトリックって絶対おかしいよwww

で、アドラン司教が1789年にベトナム帰還。一方の広南のグエンさんも周辺諸国から兵力を集めて、挙兵。1802年、西山のグエンさん一族を皆殺しにして、広南のグエンさんが再び王朝を興すこととなった。

北部の鄭氏と黎朝は西山のグエンさんが潰してくれたから、西山のグエンさんを潰した広南のグエンさんがベトナム統一、みたいな流れなんですの。
あと、フランス本国が広南のグエンさんを支援したんじゃなくて、アドラン司教・そしてカトリック教会が広南のグエンさんを支援したのね。

詳しくは、Wikiってみると面白いと思うぉ♪

リンク Wikipedia 西山朝 西山朝(せいざんちょう、タイソン朝、ベトナム語: Nhà Tây Sơn / 家西山)は、1778年から1802年の間、ベトナムに存在した短期王朝。この期間の一連の出来事は西山党の乱(タイソン党の乱)とも呼ばれる。 18世紀のベトナムでは、黎朝の皇帝が名目上のものとなり、北部は鄭氏が北河国(中国呼称:交趾国、日本呼称:東京国)を称し、南部は阮氏が広南国を称していた。この二つの政権は「鄭阮戦争」と呼ばれる抗争を繰り返し、国土は疲弊した。 直接の抗争が落ち着いた後も、東京鄭氏の治世下では地主や官僚の土地私有化

Moka Hirata @mokaaan

次の王・ミンマンは逆にキリスト教を弾圧する。フランス、激怒。そりゃそーだなw #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:53:24
明命帝 - Wikipedia

清の政治体制なんかをパクって、ベトナムの強国化を図った王様。

当初はフランスのカトリック教会の支援を得てベトナムを統一したグエン朝はキリスト教を受け入れていたが、支配体制が清国に近いものになるにつれて、儒教色が強くなり、祖先崇拝を否定するキリスト教と相容れなくなっていった。

Moka Hirata @mokaaan

まぁ、キリスト教の影響が強くなりすぎたことに警戒したんだけどね。どこでも起こっていた、当たり前の流れwww #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:54:01

植民地化されるベトナム

Moka Hirata @mokaaan

その頃、清でアヘン戦争勃発。フランスもベトナムの植民地化に乗り出す。でヒェップホア王はフランスの保護国になるアルマン条約を締結することになっちゃう(´・ω・`) #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:55:05
Moka Hirata @mokaaan

その王様と次の王様は毒殺されてしまい、当時12歳のハムギはベトナムの王となる。まぁ、フランスの傀儡政権だな。 #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:56:00
Moka Hirata @mokaaan

ハムギ帝はおとなになると、フランスに抵抗して捉えられてしまう。で、アルジェリアに幽閉されて一生を終えることになった。カワイソス(´・ω・`) #かるのーと #歴史カフェ #日本史

2016-11-01 18:56:54

1840年に起きたアヘン戦争を受けて、フランスもベトナム植民地化の野心を強くした。コーチシナ戦争(1858-1862)では、フランスはグエン朝の南部行政区を武力併合して、仏領コーチシナを形成。

当時すでにグエン朝にはフランスに対抗しうる戦力はなかったが、これに代わって北ベトナムと清国南部国境地帯に展開していた軍閥である黒旗軍がフランスと対峙。1873年、黒旗軍はハノイ砦でフランス・コーチシナ駐屯軍部隊を壊滅させたりしている。

1882年、清国は南方遠征軍をベトナムに派兵。北部のトンキンで重要拠点への駐屯を開始した。清国の動きに対してフランスは1883年、コーチシナから進軍を開始。トンキン戦争が始まった。

この頃フランス本国では植民地拡大政策をとる政権になった事もあり、ベトナムの植民地化に向けた動きが加速している。

フランスが派遣した増援遠征軍は、1883年8月グエン朝軍に大きな損害を与えた。

一方、ベトナムにとって1883年はフランスとの戦いだけでなく動乱の年で、7月に36年間在位したグエン朝4代皇帝トゥドゥック王(嗣徳帝)が死去。次のズクドゥク王(育徳帝)が皇位継承するもいろいろあってわずか3日で地位剥奪の上、絶食により餓死させられた。次にヒエップホア王(協和帝)が即位するんだけど、トゥドゥック王の死後、王朝内は皇后と重臣に牛耳られている上に、重臣は権力抗争中で皇帝とは名ばかりの重臣の傀儡状態。

そんなさなかにフランス軍の遠征軍に負けて、アルマン条約(癸未条約)にサインすることになる。これによって、ベトナムはフランスの保護国(植民地)となり、独立は失われたが国は存続することになった。

その後ヒエップホア王は重臣の一人と組み、他の重臣を排除するためにフランスと仲良くすることを図るがバレて、王の座を追われることになる。ヒエップホア王と組んだ重臣は殺害され、ヒエップホア王も王宮内に幽閉された上、毒酒をあおる事を強要されて殺害された。ヒエップホア王、わずか4ヶ月の王様。

次にキエンフック王(建福帝)が即位するが、彼もまた重臣が偉そうにしてる事に不満を持ち、排除しようとするが失敗。毒を盛られて暗殺されている。16歳の早すぎる死だった。約半年だけの王様。

次の王になったのが、ハムギ(咸宜帝)。13歳で即位したが、翌年にはフランスに徹底抗戦する事に決め、フエ(王都)を脱出した。ハムギが反旗を翻した事で、フランスはハムギを廃位し、その兄・ドンカイン(同慶帝)を王とした。ハムギは約3年逃亡生活を続けたが、1888年ついに捕らえられアルジェリアに流された。

ベトナムのグエン朝が内部でゴタゴタしてるけど、周りではベトナムを舞台に清国とフランスの戦争が絶賛進行中www

ちなみにハムギはアルジェリアでフランス人女性と結婚し、3人の子供を作って72歳まで生きたみたい。う~ん、本人はフランスと戦い続けたかったのかもしれないが、ベトナムで苦難の時代を過ごした王族と比べると幸せなのかもしれない。幸せってなんだろうね。

リンク Wikipedia 嗣徳帝 嗣徳帝(しとくてい、トゥドゥックてい、Tự Ðức、1829年9月22日 - 1883年7月17日)は、阮朝の第4代皇帝(在位:1847年 - 1883年)。諱は阮福洪任(Nguyễn Phúc Hồng Nhậm)、後に阮福時(Nguyễn Phúc Thì)と改めた。 紹治帝の二男、18歳で即位。儒教思想を尊ぶ文人とされる。 1787年の佛安条約以降、安南王の嘉隆帝と協調関係を維持したフランスであったが、1820年の嘉隆帝の死後より次第に民心も疎隔し、嗣徳帝即位の頃には排仏熱が高まりをみせていた。18
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