双頭の龍(後編) 「転 尾張国内円覚寺領の再立荘」

鎌倉幕府滅亡後、鎌倉・円覚寺は尾張国内において在地にそくした荘園の整備をおこなった、その遠因の存在の可能性を指摘。
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弘安6年から

ほおづきン @kagachi_ecm

永仁の院宣というのは目録(七三六)にはあるが原本はないものの、五八七に院宣を受けた関東下知状が残ってる。

2017-01-02 11:14:53
ほおづきン @kagachi_ecm

貞治2(1363)年4月(一七『中世2』)円覚寺文書目録。

2017-01-02 15:13:19
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安6(1283)年、北条時宗によって将軍家祈祷所として(海東郡)冨田庄ならびに冨吉加納などを寄進している。(四八〇・四八二・四八三)

2017-01-02 11:25:01
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安6(1283)年9月21日(四八四)、冨田庄の年貢の運送のための宿兵士を各地の地頭に命じている。このような文書の存在は、尾張から鎌倉まで年貢が動いたことをしめしている。

2017-01-02 11:31:30
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安6(1283)年9月27日(四八五・四八六)、円覚寺が年貢の使い道を北条時宗に注進している。

2017-01-02 11:36:15
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安6(1283)年10月9日(四八七)、(海東郡)冨吉庄・(春部郡)味岡庄などが、安嘉門院(邦子内親王)の五七日(法事)の費用を負担する。

2017-01-02 11:41:08
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安7(1284)年9月(四九二・)、円覚寺が年貢の使途を北条貞時に注進する。

2017-01-02 11:44:32
ほおづきン @kagachi_ecm

弘安8(1285)年9月5日(五〇六)、(春部郡)篠木庄の領家職を東二条院にあたえる。この文書は、なんか突飛に感じる。

2017-01-02 11:53:03
ほおづきン @kagachi_ecm

正応2(1289)年2月27日(五(一七))久我通忠後室が、海東(郡)の上・中を子・通基にゆずる。

2017-01-02 12:00:55
ほおづきン @kagachi_ecm

正応3(1290)年9月12日(五四二)、六波羅探題が冨田庄・北馬嶋の領家との相論について、裁定。雑掌、地頭代ともに僧名だが、具体的に円覚寺が登場するわけではない。

2017-01-02 14:51:15
ほおづきン @kagachi_ecm

正応5(1292)年6月24日(2ノ一七)、北条貞時の富田荘成願寺に関する下知状。(現存せず)

2017-01-02 15:16:29
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁元(1293)年6月25日(五六四)、北条貞時(春部郡)篠木庄を円覚寺の造営料所とする。(冨田庄の四〇八と書式が違うのでは?)

2017-01-02 15:23:49
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁3(1295)年6月9日、冨田荘政所恵一房が月宛請文を円覚寺にだす。(現存せず) 同7月3日、久明親王、篠木荘を円覚寺に永代寄進する。(現存せず)(七三六)

2017-01-02 15:30:17
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁3(1295)年9月26日(五七〇・五七一)、永仁2年の年貢を円覚寺が篠木庄領家に納める。「伯玖拾(190)貫文」とあるから、お金で納めてるのか。

2017-01-02 15:40:40
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁3(1295)年10月3日(五七三・五七四)、円覚寺が篠木庄領家(平助宗カ)に正応5(1292)年・永仁3年分の年貢を納める。 篠木庄領家が和与によって円覚寺を請所とする。(ようは、この年の年貢を、とどこおりなく、さらに1年分を加えて安堵されたか?)

2017-01-02 15:55:08
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁4(1296)年12月20日(五八七)、幕府が関東下知状として、後深草院の院宣による円覚寺、(春部郡)篠木庄の地頭請所の設置を認める。(この辺、文書の発給順番が無茶苦茶)

2017-01-02 16:02:26
ほおづきン @kagachi_ecm

まず、幕府・執権なり院・朝廷の地頭請所を認める文書があって、検地というか年貢状を作って年貢を納めるという順番なのに、

2017-01-02 16:07:33
ほおづきン @kagachi_ecm

年貢を領家に納めて、その功で、地頭請所に領家から任命され、その後に院・幕府の承認になってる。 さらに、その全体の前に北条貞時が円覚寺の造営料所とするとしている。

2017-01-02 16:12:30
ほおづきン @kagachi_ecm

永仁5年9月(五九一)、これより先、幕府、尾張国以西の訴訟のうち、この年4月以降に鎌倉に注進された案件を、六波羅探題にうつす。

2017-01-03 10:51:18
ほおづきン @kagachi_ecm

正安2(1300)年2月17日(2ノ一七)、北条宣時・師時、(海東郡)得真村を円覚寺に寄進。(現存せず)

2017-01-03 11:01:44
ほおづきン @kagachi_ecm

正安2(1300)年12月3日(六一〇)、尾張守護代、幕府の命で、宝蔵寺で異国降伏の祈祷をさせる。

2017-01-03 11:05:50
ほおづきン @kagachi_ecm

嘉元4(1306)年11月18日(六四九・六五〇)、今村福満寺領畠地・中島郡南条下池部里内を契約で円覚寺に寄進。年貢、銭・参貫伍百文。 荻須美術館の南っ側あたりだよね。

2017-01-03 11:30:08
ほおづきン @kagachi_ecm

延慶2(1309)年7月11日(六六八)、冨田荘・自性院(成願寺)が台風により被害。

2017-01-03 11:41:56
ほおづきン @kagachi_ecm

延慶4(1311)年5月1日(六九七)、幕府(関東下知状案)、(海東郡)富吉庄の雑掌の申請で消失文書の写しを正文と認める。(円覚寺という記述なし)

2017-01-03 13:53:13
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