双頭の龍(後編) 「転 尾張国内円覚寺領の再立荘」
- kagachi_ecm
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弘安6年から
弘安6(1283)年、北条時宗によって将軍家祈祷所として(海東郡)冨田庄ならびに冨吉加納などを寄進している。(四八〇・四八二・四八三)
2017-01-02 11:25:01弘安6(1283)年9月21日(四八四)、冨田庄の年貢の運送のための宿兵士を各地の地頭に命じている。このような文書の存在は、尾張から鎌倉まで年貢が動いたことをしめしている。
2017-01-02 11:31:30弘安6(1283)年10月9日(四八七)、(海東郡)冨吉庄・(春部郡)味岡庄などが、安嘉門院(邦子内親王)の五七日(法事)の費用を負担する。
2017-01-02 11:41:08正応3(1290)年9月12日(五四二)、六波羅探題が冨田庄・北馬嶋の領家との相論について、裁定。雑掌、地頭代ともに僧名だが、具体的に円覚寺が登場するわけではない。
2017-01-02 14:51:15永仁元(1293)年6月25日(五六四)、北条貞時(春部郡)篠木庄を円覚寺の造営料所とする。(冨田庄の四〇八と書式が違うのでは?)
2017-01-02 15:23:49永仁3(1295)年6月9日、冨田荘政所恵一房が月宛請文を円覚寺にだす。(現存せず) 同7月3日、久明親王、篠木荘を円覚寺に永代寄進する。(現存せず)(七三六)
2017-01-02 15:30:17永仁3(1295)年9月26日(五七〇・五七一)、永仁2年の年貢を円覚寺が篠木庄領家に納める。「伯玖拾(190)貫文」とあるから、お金で納めてるのか。
2017-01-02 15:40:40永仁3(1295)年10月3日(五七三・五七四)、円覚寺が篠木庄領家(平助宗カ)に正応5(1292)年・永仁3年分の年貢を納める。 篠木庄領家が和与によって円覚寺を請所とする。(ようは、この年の年貢を、とどこおりなく、さらに1年分を加えて安堵されたか?)
2017-01-02 15:55:08永仁4(1296)年12月20日(五八七)、幕府が関東下知状として、後深草院の院宣による円覚寺、(春部郡)篠木庄の地頭請所の設置を認める。(この辺、文書の発給順番が無茶苦茶)
2017-01-02 16:02:26年貢を領家に納めて、その功で、地頭請所に領家から任命され、その後に院・幕府の承認になってる。 さらに、その全体の前に北条貞時が円覚寺の造営料所とするとしている。
2017-01-02 16:12:30永仁5年9月(五九一)、これより先、幕府、尾張国以西の訴訟のうち、この年4月以降に鎌倉に注進された案件を、六波羅探題にうつす。
2017-01-03 10:51:18嘉元4(1306)年11月18日(六四九・六五〇)、今村福満寺領畠地・中島郡南条下池部里内を契約で円覚寺に寄進。年貢、銭・参貫伍百文。 荻須美術館の南っ側あたりだよね。
2017-01-03 11:30:08延慶4(1311)年5月1日(六九七)、幕府(関東下知状案)、(海東郡)富吉庄の雑掌の申請で消失文書の写しを正文と認める。(円覚寺という記述なし)
2017-01-03 13:53:13