@yama326 ちょっと不明瞭か。むしろそのヴァナキュラー対ユニヴァーサルという構図で、後者にモダニズムを見るような古くさいモダニズム観は成り立たず、ヴァナキュラーな環境での実践こそがモダニズムを豊かなものにした、そしてそれは雑誌のような近代性の中で実現されたということね。
2011-03-02 00:51:19@naohikohino 後期に受けていたボスの講義とも、意味が繋がりました。断絶や機械や衛生陶器として近代建築が受け入れられたのでなく、環境との融和をもって建築が豊かに彩られ、受け入れられたわ。それを雑誌という近代がフレーミングすることで、策略的に近代建築像が作られていったと。
2011-03-02 01:00:08@naohikohino なんか違いますかね笑 ちなみに、ここで言うガラスの家の都市性は、ファンズワース邸と比較したときにディテールがないことに拠るものなのでしょうか?
2011-03-02 01:03:04@yama326 根本的には、モダニズムはスタイルではないということなんでしょう。どこでだってモダニズム的実践はあり得る。むしろ非近代的な場所でこそモダニズムに邁進するインセンティブがあり、それは国民国家的世界フレームと繋がっている。スタイル化は特殊なアメリカの事情とすら言える。
2011-03-02 01:03:58@yama326 面白いのはスタイル化(脱政治化)の立役者であるフィリップ・ジョンソンが、わりとパラッツォの系譜にこだわること。あのヒトの内面と、果たした役割は分裂している。
2011-03-02 01:06:04@yama326 いや、あの家ではプライバシーが問題になってる、ディティールはきわめてメカニカルでいわばしつらえ(家具)的、狭さを克服するさまざまなギミックがあり、建物の構造的にも古いアパルトマンを背負っている。オーナーの職業的にも都市的だよね。
2011-03-02 01:09:09@naohikohino たしかに、モダニズムをスタイルに回収する事には無理が生じてしまうんですよね。精神性としてのモダニズムを考える方が、非常にスッキリと時代を捉えられます。
2011-03-02 01:11:49@yama326 そして、モダニズムが限界に行き当たるのは生の都市に直面したときなんだ。つまりポストモダニズムを招き寄せたものこそ都市性。ここは八束さんと見解は違うかもしれない。
2011-03-02 01:13:19@naohikohino まずはフィリップ・ジョンソンの素性から知らなければならないようですね。。ここでのスタイル化と言うのは、建築のアート化として捉えてもよいのでしょうか?
2011-03-02 01:14:06@yama326 産業資本主義ではモダニズム的実践は有意義であると自認できるけど、需要不足の消費資本主義になると自らの有意義さに懐疑せざるを得ない。これは重大な問題だと思う。
2011-03-02 01:15:13@yama326 GAが出してた、たぶん今は絶版の、白い本がある、著作集かな?あれ読むとこのオッサンこういう奴かとよくわかる。すごくデカダンス。
2011-03-02 01:17:04@naohikohino “都市が見えなくなる”わけですね。たしかに、日本のモダニストたちは都市を見据えてたとする点においては、ウチのボスとは違う見解かと思います。研究室にいると、無意識のうちに-izedされていくので、視野を広くするうえで非常に参考になります。
2011-03-02 01:18:09@yama326 というわけで、ヴィラとパラッツォの区別の話は、現代までばっちり引っ張って来れる太い線なのです。ケンさん編集の本はそれはそれで別として。
2011-03-02 01:19:24@naohikohino 全部追いつけていませんが笑 勉強になりました。ありがとうございます。最近は日本ばかりだったので、たまには60年代の海外建築にも眼を向けるようにしてみます。
2011-03-02 01:23:56@yama326 まとめるなら最初と最後を繋いでおこう。ギャラ間展は、同じような建築家が同じような建築を世界各地で作っている現代を背景としている。中東でも欧州でも東アジアでも同じスタイルでハンコ押したみたいに建築が作られている。これはa+u増刊からすると貧しい状況。
2011-03-02 02:38:53@yama326 でも丁寧にみていくと、現代でも具体的な状況の中から固有の建築を作っている人たちがいて、それを拾い上げているのがギャラ間展。建築の豊かさはちゃんとそこにあるし、アイコン建築ブームの焼け跡のなかからその芽はちゃんと出てくるだろうという期待も込めて。
2011-03-02 02:41:57@yama326 つまりa+u増刊では歴史的事象としてのモダニズムがフィールドだったけど、ギャラ間展はそれは現代でも同様であり得るのではないかってわけだ。
2011-03-02 02:43:28@yama326 ちなみに日本の都市住宅は、ヴィラでもパラッツォでもない。塚本さんがいつも正確に言っているように、あれはurban detached house。中流の生活者が住む都市型戸建住宅。detachedというからには共有壁のあるパラッツォ型が都市では普遍的、戸建は特殊。
2011-03-02 02:47:42@naohikohino 頭とお尻のつながりは理解できました。やはり、その文脈の中で、日本から選ばれたのが石上さんであることには違和感を感じます。そうやって最果ての建築家たりうる人が日本には他にもいるのではないかと思います。
2011-03-02 02:58:08@yama326 その感覚はわかる。しかし石上さんはやはり極めて日本的なんだとも思う。それは日本的閉塞だ、ということではなくてね。
2011-03-02 03:01:55@naohikohino 〈ナイーブ≒日本的〉というオリエンタリズムに満ちた考え方が気に食わないのですが笑 もっと深いところに(或いはとても表層的な部分が)日本的なるものを持っているのでしょうか。そこら辺も宿題ですね。。笑
2011-03-02 03:10:46@yama326 石上さんをナイーブと思う風潮があるのかもしれないけど、それは根本的なところで何か見落としてると思う。あれはラディカルです。ナイーブってのは根源的なものの掌のなかでの享楽ですけど、石上さんは建築でないはずのものを建築として提示している。そこに驚けないのはまずい。
2011-03-02 03:17:51つまり石上さんはボルヘス的なところがある、ということなのかな。こう言うと文学的に聞こえてしまうのかもしれなくて、それは大変不快なのだけど。
2011-03-02 03:19:55