社会科学原論の試論
この世の中には「相対性」がある。これまで「絶対的」であると妄信されていたすべての「公理」は「相対的」である。ユークリッド幾何学も、慣性の法則も、アインシュタインの述べる通り、時間の観念すら「絶対性」はない。「神」の概念すら相対的なものである。
2011-02-06 15:31:04近代自然科学は、平然とウソを並べている。否、真理ではないこと=相対的には真理と考えられること、を説いているに過ぎない。論理的に考えると、実証主義とは過去のトレンドから推理される「未来」を提示するだけで、「未来」を厳密に予測したものではない。
2011-02-06 15:31:19過去において、地球は太陽の周りをXという周期で公転していたとしても、明日その公転活動を停止したり、逆廻りを始めたり、あるいはその軌道からはずれることだって、まったくない訳ではない。凝り固まった頭で、何を予測したいのであろうか?
2011-02-06 15:31:30もう一例示そう。数字とは便利なもので、我々の日常から既に切り離せぬ概念となっている。まず、数が定義された時、123・・・と自然数のみで充分、用が足りた。その後、ゼロ、負の整数、有理数、と新しい概念が誕生し、さらに無理数、虚数と実態が見えにくい「数字」がでてきた。
2011-02-06 15:31:45無理数、虚数とは数学を論理的たらしめるための便法であり、無理数は直角二等辺三角形の斜辺、あるいは円周として確かに実存するのでまだ良いが、虚数とは数学者の面子を守るだけの悪あがきにしか映らない。
2011-02-06 15:31:57ゼロは本来的な意義として、決して「何もない」状態ではない。「ゼロという状態」があるのだ。ゼロは自然状態であり、安定相であり、森羅万象の帰結した姿である。仏教では、人は生老病死という四苦や八苦を経由して、「無」に帰るという。
2011-02-06 15:32:52「無」では魂は生きているのであり、決して何もない状態であるということではない。だからゼロ=無限大である。0/0を無限大と定義した数学者は、強ち誤謬を犯した訳ではない。
2011-02-06 15:33:01宇宙ないしは自然界には「法」がある。秩序・混沌(カオス)・禁忌(タブー)・空間・時間・誕生と破壊などの形而上・形而下の要素が混在化する「法」がある。人類は有史以来「法」を解明しようと様々な試みを行って来ている。
2011-02-06 15:34:51これが科学であり、科学体系は、東洋思想・西洋思想・科学哲学などにサポートされながら、自然科学・人文科学・社会科学へと細分化されていった。
2011-02-06 15:35:03さて、そもそも社会科学あるいは「社会」とは何であろうか?「社会」とは一体21世紀にはどうなっていくのであろうか?本ポストの狙いはそこにある。
2011-02-06 15:35:31社会の起源を遡るまでもなく、複数の生物ないし細胞があつまるところ「社会」は生まれると言って良いだろう。「人間」でなく敢えて「生物・細胞」としたのは、ムラをつくるサル、ウミネコなどの生物においても程度の差こそあれ、人間界と同質な文化・習俗が発生している。
2011-02-06 15:36:19そして、われわれの脳細胞においても特定の細胞が人体の諸機関に指令を発する様は、ちょうど国家や企業と国民・従業員の関係に類している。
2011-02-06 15:36:40したがって、「社会」の構造を俯瞰するためには、自然界・宇宙の「法」を探求しなければならないし、当然社会科学は自然科学を内包しなければならない。すなわち、社会科学の探求には自然科学のディシプリン(経験、仮説、実験、実証などのプロセス)が必要である。
2011-02-06 15:37:02日本では明治維新、日清・日露戦争、大恐慌、敗戦、復興、高度成長、バブル経済の破綻などを経る近現代の歴史過程において、摂理・原則または精神を忘却の彼方へ捨ててしまったようだ。
2011-02-06 15:38:30勿論、これは日本だけにみられる現象ではない。例えば、ソ連邦崩壊後の世界は、第三世界まで資本主義の育成に傾注、中国などリアリストのィ小平の指導の下、社会主義市場経済という本来相容れないと思われていた思想体系の融合を図ったなどの事例もみられる。
2011-02-06 15:38:40資本主義とは、西洋的自由主義思想とプロテスタンティズムを柱とした経済思想であり、東洋の自然主義思想と本来の資本主義思想との根源は異なる。また、アメリカの資本主義が独立戦争(革命)を契機とした民衆主導型であるのに対し、日本の後発的資本主義は政府国家が推進する官僚主導型である。
2011-02-06 15:39:04日本における資本主義は、経済主体である企業の利潤追求原理など見掛け上の自由主義をとっているものの、反面政府・官僚の裁量権の多さを特徴としており、実態は社会主義に極めて近い経済体制となっている。
2011-02-06 15:39:13さて、経済の考察は後に譲るとして、歴史の展開をみると「矛盾・カオス」が「破壊・蕩尽」を導き、それが「発展・繁栄」へと繋がる「弁証法的」過程を経てきた。
2011-02-06 15:39:29勿論、そこには「微妙なバランス=調和」ともいえる平穏なプロセスが存在するが、平和な時代においても「乱を求める」民衆の心理もあって決して安定相ではないし、その社会システムの中にやがて大きな「矛盾」となるべき萌芽が内包されており、これが時とともに過剰化してゆく。
2011-02-06 15:39:54ではなぜ民衆は平において「乱を求める」のか。これこそまさに「呪われた部分」である。「自由からの逃走」と称される現象についても、功利主義的発想からは説明不可能であり、実存的・突発的な人間の行為は、目的的行為論者ないし合理主義の見地からは把握するのに困難が伴う。
2011-02-06 15:40:08結論を言えば、森羅万象(宇宙・自然・人間・社会システム・富・エネルギー・等々諸々)は決して一定の相はとらない。アウフヘーベンされた世界・秩序は最終形態とはならない。また、すべてのものには存在の「目的」はない。
2011-02-06 15:40:42人間は「目的」を持って誕生してくるのではないし、「人生の目的」など幻想である。強いて挙げれば「死・破壊・蕩尽」こそ万物に与えられた「帰着点」である。しかしながら、その「帰着点」も最終「結果」ではない。
2011-02-06 15:40:54