@necratallo 形式的推論ではないので帰納法とかも含みますが、そうした広い意味での推論の場面です(「AならばB」から「BならばA」を帰結する誤りとか、自然言語上ではよくありますよね)。
2011-03-06 14:26:46つまり「論理的である」ということは「実効力がある」ことを含意している。自然に関する論理的説明(科学)は、自然を支配することを以て現実の実効力を発揮する。「怒り」が「相手を従属させようとする感情の発露」であるのなら、この説明は成立する(かな?)。
2011-03-06 14:27:42@Taroupho 一点補足しておくと、皆が思っているほど科学は論理に傾倒していません。数学(論理的説明)に実効力(実証)を持たせたものが科学です。
2011-03-06 14:31:57.@ceno_sougou どちらかと言えば、「論理」そのものがそれほど「論理に傾倒」してはいないのではないか、と思う今日この頃です。むしろ「論理」自体が、ある程度までは「科学的(=反証可能性がある)」ものなのではないかと。
2011-03-06 14:37:29@Taroupho 論理そのものというよりも論理の使い方、ですね。論理は「前提からはみ出さない事」なので、少なくとも“前提”を定める際には論理以外に傾倒しなければならない。
2011-03-06 14:40:16つまり、ぼくの感覚では、「論理」は「相手に自分の言うことをきかせる」ための道具の一種なのよね。他に「怒り」なども、同様の道具として使える。目的は「自分の言うことをきかせる」ことにあって、「論理的批判」にするか「怒り」にするかは手段の選択にすぎないのではないか。
2011-03-06 14:40:45.@ceno_sougou いえ、推論規則の取り方なども、場合に即してのものだと思います。基本的にはモーダス・ポネンスがあれば必要充分ですが、それを取るか取らないかも実は任意だと思いますので。
2011-03-06 14:44:05@Taroupho ええ、論理の最も広い意味は、そうでしょう。しかし、それは普通「論理」ではなく「弁論法」などと呼ばれているはずです。
2011-03-06 14:51:36結局、世界はなぜ論理的か(真でも偽でもない筈の世界がなぜ論理的なものとして切り出されて来るのか)というのがポイントなのかも知れないな。
2011-03-06 14:47:15普通の人は世界がただ存在していると思い、数学者は、全ての根底は数学に在ると言い、物理学者は全ては物質が可能にしていると言い、科学者は、根底に何らかのルールがあると考え、哲学者は、そもそも根底に何かある、ということ自体を疑う。
2011-03-06 14:34:54探求の方向は、普通は根底に何かがあるという向きを向いている(物質が、数学が、規則が、、、、)。 だが本当に何かが、根底にあって、それが世界を可能にしているのだろうか? それは言語の見せる夢ではないだろうか、と疑う方向もある。
2011-03-06 14:37:12そして、何が前提なのか、ということを考える営みは、本当はとても大変なのですよ。 そして、それが哲学が徒労である理由の一つだと思います。 前提は前提であるがゆえに、ただ前提されて使われているだけなのでしょうから。
2011-03-06 14:40:48哲学が何を考えうるかを(認識の限界を)考える学問だといわれる理由がわかってきた、つまり、そのような構造や仕組みの解明を通じて、なにが”できないか””事実していざるをえないか”、というところを明るみにしていく作業なんだ。
2011-03-06 14:52:08こんなことを考えていて気が狂ってしまうなら、狂ってしまって良いじゃないか。 こんなことを考えていて、何の役にも立たないなら、立たなくて良いじゃないか。 私ときたら、こんなことを考えるのに夢中なんだ。
2011-03-06 15:14:00