永禄5年 蝦夷人による南部氏家臣誘拐連れまわし事件

タイトルのまんま。近世記録だよ。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

鹿角毛馬内の不動院古記録にある『永禄5年に松前の蝦夷が蜂起して鹿角にも忍び来て武士が誘拐された』って、お前らなんで鹿角まで来てんだよとかなんで武士誘拐してんだよとかいろいろ突っ込みどころがあって楽しい。

2013-11-06 12:37:02
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、この事件が書かれた史料の正式な名前は、江戸中期に毛馬内不動院が書いた『神社由緒覚』だそうで。

2015-11-20 20:26:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、事件の経緯はこんな感じ。 永禄5年に松前の蝦夷が蜂起して隣国津軽をも騒がし、時には鹿角境にまで来て治安を乱すことがあった。毛馬内靫負の家臣だった和田三五右衛門は、同僚の相馬備中が山中を歩いてた時、蝦夷4・5人に絡め取られ誘拐されたことを知り、息子三五郎と共に後を追いかけた(続

2015-11-20 20:29:01
帆船ハッカ @kotosakikotoko

しかし2人もまた潜んでいた蝦夷多数に生け捕りにされ、三人揃って間道伝いで連行され、津軽外ヶ浜でようやく解放された。三人は食べ物もなく飢えていた為、外ヶ浜の山伏大萬坊を頼り、三五右衛門はその弟子となり華蔵坊と改めた。寄宿を続けられず毛馬内に帰ると、ちょうど永禄6年に大坊一位が(続

2015-11-20 20:36:06
帆船ハッカ @kotosakikotoko

お亡くなりになり、後継の男子が居なかったので、三五右衛門が毛馬内城主及び羽黒雲林院の命によって坊跡を継ぎ羽黒山に入峰、赴任状を得て不動院源慶法印と号した――。 だそうです。

2015-11-20 20:39:58
帆船ハッカ @kotosakikotoko

蝦夷たちの動機がさっぱり分からん。何でこいつら武士三人誘拐して外ヶ浜まで旅してんだ? って感じだし、蝦夷たちが鹿角や津軽領内で堂々通過してるのも不思議だ。いや、津軽には普通に地元住の蝦夷たちが居たから不思議じゃないのかもしれんが。為信に抗した八重や弥介とか。

2015-11-20 20:45:59
帆船ハッカ @kotosakikotoko

事件が起きた鹿角は陸奥国の一郡で現在の秋田県鹿角市周辺。当時は南部領で、この鹿角の北部毛馬内を領していたのが、三戸南部氏の一族毛馬内氏。 隣国安東氏との国境に面し、この事件の数年後に激しい争奪戦が発生してたりする。

2017-03-13 22:30:27
帆船ハッカ @kotosakikotoko

永禄5年の北奥羽地域は、まず蝦夷地では茂別館の館主下国師季が蝦夷の攻撃により館を落ちたとされ、さらに前年に蝦夷地を支配する蠣崎氏の次期当主舜広が、そしてその年に舜広の実弟元広が長女によって毒殺され、長女は死罪となる。

2017-03-13 22:32:28
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽では浪岡御所と称された浪岡北畠氏で内紛が発生し当主が切られる事件が発生(川原御所の乱)、秋田では安東愛季が比内郡主浅利則祐を謀殺、など、事件が立て続けに起きている。 これらの事件の延長線上に、この誘拐事件を考える事も出来る、かもしれない。

2017-03-13 22:33:53
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、訂正。則祐(範祐)は謀殺じゃなくて攻め込まれて自害だ。

2017-03-14 13:47:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

蝦夷人が戦国期に本州に来ているのは、色んな記録に残っていて(ルイス・フロイスの書簡とか各地の発掘調査とか)中には海賊行為を働いていた、とする伝聞情報もあったりで、なかなか彼らの活動も活発だった模様。

2017-03-12 22:01:02
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ちなみに蝦夷による南部家臣誘拐事件、『ふるさと鹿角』に現代訳があります。 iss.ndl.go.jp/books/R1000000…

2017-03-12 21:36:53