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桜田門外の変をまとめてみた

安政7年3月3日(1860年3月24日)に起こった桜田門外の変と安政の大獄を少し、訪れた史跡の写真とパブリックドメインの画像でまとめたものです。
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題への介入を問われ、頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首。26歳の若さで斬死します。東京都荒川区南千住に在る小塚原回向院には、橋本左内のお墓が在ります。#安政の大獄 #井伊直弼 pic.twitter.com/nAl4Ymbslj

2017-03-06 23:44:22
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 頼 三樹三郎は京都の儒学者で、尊王攘夷推進と一橋慶喜擁立を求めて朝廷に働きかけた為、井伊直弼から危険人物の一人と見なされます。捕らえられた後は江戸伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らと共に斬首されています。#安政の大獄 #井伊直弼 pic.twitter.com/AhM0r53yAz

2017-03-07 00:08:39
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 吉田松陰は、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結した事をを知り激怒、老中・間部詮勝要撃計画を提言します。これは老中・間部詮勝が孝明天皇へ弁明する為に上洛するのを捉えて条約破棄と攘夷実行を迫って、容れられない場合は討ち取るという過激なものでした。

2017-03-07 20:17:28
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 松陰は老中要撃計画を長州藩重役に手紙を書き、計画実行の為に大砲など武器弾薬の借用を藩に願い出ますが無論、拒絶されます。そもそも松陰は何故、わざわざ藩の重役に間部要撃を知らせたのか、常識では考えられない行動です。#安政の大獄 #井伊直弼

2017-03-07 20:35:53
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 過激な行動で藩上層部に揺さぶりをかければ、藩は倒幕に向かうはずだとか、自分の行動は日本の将来を憂いた正義で、隠す必要がないと思っていたとも考えられます。吉田松陰の名言に「至誠にして動かざる者は 未だこれ有らざるなり」というものがあります。

2017-03-07 21:31:27
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 誠の心で事に当たれば、心を動かされない人はいない。という意味ですが、至誠で行う正義の行動なのだから、藩は認めるはずと思ったのでしょうか。彼の純粋過ぎた至誠は長州藩上層部には届かず、1858年(安政5年)12月、野山獄入りの藩命が下ります。 pic.twitter.com/cyD6nFHbHt

2017-03-07 22:24:25
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 獄中でも松陰の志は衰えず、ますます血気盛んになります。松陰は攘夷派の公家・大原重徳を長州に迎え倒幕の兵を挙げようとしますが、小田村伊之助(後の初代群馬県令で松陰の末妹・美和子と再婚)の反対で頓挫。江戸滞在中の久坂玄瑞・高杉晋作ら塾生からも諫められます。

2017-03-07 23:01:40
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 塾生の中でも期待していた久坂や高杉に反対された事が余程ショックだったのでしょう。松陰は「僕は忠義をする積り。諸友は功業をなす積り」「私は忠義の為に行動する。君たちは自分の手柄を立てたいだけ」という有名な手紙を残します。 pic.twitter.com/3hKBAVGXLv

2017-03-08 20:09:03
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 松陰と塾生の間に亀裂が入ったこの頃、萩に大高又二郎と平島武次郎の2名の志士が現れます。大高又二郎は赤穂四十七士の1人・大高源五の子孫で林田藩浪士、平島武次郎は備中浪士で共に儒学者・梅田雲浜に学んだ攘夷派志士でした。

2017-03-08 20:35:27
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 2人は長州藩主・毛利敬親が参勤交代で京に立ち寄る際に、攘夷派公家・大原重徳と対面させ倒幕の算段を練る計画を持ち掛けます。しかし長州藩首脳はこの提案を拒否。そこで新たに計画を練り直したのが「伏見要駕策」でした。 pic.twitter.com/S5nT6kTAuM

2017-03-08 21:14:26
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@MoeK20060408 計画は参勤交代の列を伏見で待ち受け、藩主・毛利敬親の駕篭を止めて大原重徳が敬親を説得し、大原重徳を伴って御所に上がり、天皇に謁見し幕府の失政を糾弾するというものでしたが、暴走する師に付いてくる弟子は殆ど居ませんでした。

2017-03-08 21:16:53
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 唯一味方になったのが入江九一と野村靖(後に神奈川県権令・県令)兄弟でした。2人は師の計画実現の為に行動開始しますが、2人には年老いた母と妹がおり、2人共に落命しては家族の面倒を見る者が居なくなる為、弟の靖のみが京都に向かいます。 pic.twitter.com/8aVtmFHVZz

2017-03-08 22:36:24
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 2人は暮らしがとても貧しく蓄えも無かった為、家財道具を売却して京の旅費を工面しますが、伏見要駕策は程なく藩に知られて九一は捕えられ、岩倉獄に投獄されます。一方、弟の靖は決死の覚悟で京に辿り着きますが、大原重徳からは協力を得られず、計画は頓挫します。

2017-03-08 22:50:54
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 窮した靖は、京の長州藩邸に自首し萩に送還。伏見要駕策は失敗し、野山獄に居た松陰は落胆します。1859年(安政6年)儒学者・梅田雲浜が幕府に捕縛。梅田が萩に滞在中に松陰と会っていた事・伏見要駕策の立案者大高又次郎と平島武二郎が梅田の門下生だと露呈します。

2017-03-09 22:26:19
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 吉田松陰も安政の大獄に連座し、同年5月に松陰の江戸送りが伝えられます。5月下旬に故郷の萩を離れた松陰は6月下旬に江戸に着き、7月から取調べが始まります。取調べたのは寺社奉行松平伯耆守、勘定奉行池田播磨守、町奉行石谷因幡守の三奉行でした。#安政の大獄 pic.twitter.com/SH8MjExKIE

2017-03-09 22:48:28
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 三奉行は梅田雲浜を拷問にかけた時「萩を訪れた際に松陰と会った」と供述した為、何らか密議が有ったのではと問い質します。また、御所内にあった幕府批判の落とし文の筆跡が松陰の筆跡と似ていると梅田が証言した為、松陰が犯人なのではないかと疑います。#安政の大獄 pic.twitter.com/ZLbpxM81DT

2017-03-09 23:11:52
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 これらの嫌疑に対し松陰は「梅田雲浜とは禅や学問について語り合っただけです」と述べ「私は自分の名前を隠して落文を書いたりはしません」と答えます。三奉行は梅田との関係を執拗に問い質しますが「志を語り合うような親しい仲ではない」と反論します。

2017-03-09 23:19:15
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 この段階では吉田松陰と梅田雲浜の関連を示すような供述がは無く、落とし文も松陰が書いたと断言出来る証拠もありませんでした。しかし松陰は下田での密航から現在に至る経緯を説明し、日本の将来について自ら持論を三奉行相手に語り始めます。

2017-03-09 23:53:50
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 その過程で「私は死罪に当たる罪を二つ行った」と発言し、伏見要駕策と間部詮勝要撃計画を供述、三奉行は老中の要撃計画に驚愕します。勿論「老中をお諫めしようとしたのだ」と言ったのですが、取調べは一時中断します。では何故自ら罪を告白してしまったのでしょう。 pic.twitter.com/oXVc3k1Q7J

2017-03-10 00:10:56
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 実は松陰は「伏見要駕策」と「間部詮勝要撃計画」が既に幕府は調査済みで何らかの情報を得ていると思い込んでいたようなのです。「どうせ知られているのなら、この機会に自分の主張を幕府の重臣相手に展開しよう」としたのですが、これが思い違いでした。

2017-03-10 21:10:06
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 ところが、幕府が疑念を持っていたのは梅田雲浜と松陰の関係や2人の間で何らかの密議の有無で「伏見要駕策」と「間部詮勝要撃計画」については全く知らなかったのです。取調べが再開されると三奉行の態度は厳しくなり、この様子を見た松陰は自分が勘違いしたと悟ります。

2017-03-10 21:13:21
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 焦った松陰は、あくまで間部老中を諌めようとしただけだと重ねて主張しますが、三奉行は「国を思っての行動でも、幕府の老中を襲うとは大胆も甚だしい。覚悟しろ」と述べ松陰を伝馬町送りにします。言わなくても良い罪を自供した松陰は重罪を覚悟しました。 pic.twitter.com/wL2g3hITWB

2017-03-10 21:16:20
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 取調べはその後9月と10月に行われました。この取調べは奉行ではなく吟味役が行っています。この時も松陰は「死を覚悟してお諫めしようとしただけです」と主張します。吟味役も「相、分かった」として松陰の主張を聞き入れたように見えました。

2017-03-10 21:19:14
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 厳しい詮議を覚悟していた松陰ですが、この吟味役の態度に「重い罪にはならないだろう」と思い始めます。ところが、松陰と同じく安政の大獄で投獄されていた越前藩士・橋本佐内、京都の儒学者・頼三樹三郎、志士・飯泉喜内らが処刑されたという知らせが舞い込みます。

2017-03-10 22:46:22
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

@MoeK20060408 この3名は将軍継嗣問題で一橋派として井伊直弼と対立、安政の大獄で捕縛されていました。橋本や頼は尊皇志士として知名度も高く、幕府が危険人物だとして斬首されても合点がいきますが、飯泉までも処刑されたと知り、自分も重罪になるかもしれないと松陰は思い始めます。 pic.twitter.com/xk0g0RRMJu

2017-03-10 23:04:18
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