鉄コレの阪和社形(元・阪和電鉄)から改造や流用が出来る車両、出来ない車両

鉄コレ25弾の阪和社形からや流用して作ることが出来る車両、または出来ない車両に関する情報
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透過光P @Tohkakoh_P

両運転化されてたのか。 いじるの大変そうではあるなぁ。

2017-04-14 03:36:16
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@Tohkakoh_P 松尾鉱山鉄道→弘南に行ったのはクモハ20052・20054、つまり2扉クロスシート車のモヨ100形(モヨ104・106)で、元々両運転台だったのを国鉄時代に片運転台化し、それを再度両運転台化したものなので、今回製品化のクモハ20000(元阪和モタ300)とは窓配置が全く違います。

2017-04-14 03:43:25
透過光P @Tohkakoh_P

@SEI_YASUMA ありがとうございます。 となると使えるのは台車ぐらいとかなりそうですね。 おいおい、そっちも出るといいなと思います。

2017-04-14 03:44:38
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@Tohkakoh_P 台車(汽車KS-20/日車D20:国鉄DT28)を起こしているのであれば、恐らく松尾クモハ201・202および弘南クハ2025・2026の製品化は視野に入っていると思います。ちなみに弘南モハ2025・2026時代は自重重すぎで台車が軽量化のためにDT10に交換されてました。

2017-04-14 03:47:49
透過光P @Tohkakoh_P

@SEI_YASUMA 松尾鉱業時代は、資料が少ないので、需要が怪しいですが、弘南に行ってからは、知名度もそこそこあって、比較的近年まで稼働してたので、やってくれそうですよね>秋田中央交通ですら出したくらいですし

2017-04-14 03:50:12
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@Tohkakoh_P 松尾鉱業は実は1つ必殺技がありまして。「国鉄直通のキハ52形用牽引車として使われていた」という。これがあるので出したら確実に松尾色も(シークレットなどで)出すだろうなと思います。クハ化後の姿は平賀で2両とも拝んだことがありますが、他より背が高くて堂々とした姿に感動したものでした。

2017-04-14 03:58:35
透過光P @Tohkakoh_P

@SEI_YASUMA 父方の祖母が、あの辺りの出なので、とても楽しみです。 大更の駅舎も建て替えとなったりと、当時の面影は無くなりつつあるのがちょっと寂しいですが。

2017-04-14 04:33:23
靖間 誠 @SEI_YASUMA

阪和モヨ100の窓配置はd3D8D3d、クヨ500がd3D8D4、モタ300がd2D5D5D2d、クテ700・クタ750がd2D5D5D3。つまりモタ・クテ・クタは車体長と窓数一緒で客用扉がモヨ・クヨよりそれぞれ1枚多い構成なので必然的に側窓幅がモヨ・クヨより狭くなる。

2017-04-14 03:53:39
靖間 誠 @SEI_YASUMA

ついでに言えば戦後の国鉄時代に運転台の奥行きが浅くて乗務員の居住性が劣悪ということで直後の側窓を潰して乗務員室奥行きを拡大、客室側の側窓潰した部分に再度狭窓を新設する工事を実施しているので、阪和時代の姿に改造するのは実はスゲー大変であったりする。

2017-04-14 03:55:30
靖間 誠 @SEI_YASUMA

クモハ20000からモタ300一般車は(2両以上犠牲にすれば)理屈上は可能だが、モヨ100やクモハ20050は切接考える前に側板エッチング板とかで作ることを考えるレベル、制御車およびそれを電装したモタ300は連結面側が丸妻じゃなく平妻でNGとハードルが法外に高い。

2017-04-14 04:04:32
靖間 誠 @SEI_YASUMA

あ、言い忘れていたが阪和モタ300・モヨ100の一党は全鋼製車である。 何が言いたいかというと、戦前のこのグループは鋼板屋根で屋根までリペットが打たれていたのだ。まともにやって鉄コレ改造でどうにか出来ると思わない方が宜しい。 pic.twitter.com/YdeTCVG3Ti

2017-04-14 04:08:39
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靖間 誠 @SEI_YASUMA

…しかし、短期間で撤去したとはいえ、先に示した写真の通り、新造時には安全畳垣までついてたんだよなぁ、この電車。こんな重装備の電車が戦前最速で、しかも戦後も151系「こだま」が速度向上するまで記録を抜けなかったというのは、地上施設を含め色々考えさせられる。

2017-04-14 04:13:04
靖間 誠 @SEI_YASUMA

せっかくなのでモヨ100の写真を。こうしてみると、モタ300よりも客用扉が1枚少ない分、側窓が若干広くなっていることと、客用扉がモタ300の両端扉寄りも内に寄っていることが分かると思う。このため、3扉化後は3枚の扉が妙に内に寄って設置されて見えた。 pic.twitter.com/VfTsntOTx6

2017-04-14 04:34:04
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靖間 誠 @SEI_YASUMA

先に上げたモヨ105の写真を見ると、屋根上の三菱電機P-900-Aパンタグラフがいかに幅広かつ特徴的な構造であったかが理解できよう。戦後「ブラウンボベリィのパンタ」と伝えられた由で、吉野鉄道のBBC製電機に類似パンタがついていたが。その来歴や系譜はよく判っていない。

2017-04-14 04:38:16
靖間 誠 @SEI_YASUMA

こんな馬鹿でかいパンタを大和川のTR1に載せようなどと誰が言い出したか知らないけど、まぁ、やめておいて正解だったのだろう。

2017-04-14 04:39:18
靖間 誠 @SEI_YASUMA

ちなみに日車カタログのモタ300と反対側からの撮影になるため、車掌台上の標識灯が貫通扉に寄っているのがよく判ると思う。実は阪和の電車では尾灯・標識灯はこの車掌台側1灯だけで、運転台窓の外についているのは所謂急行灯、つまり列車種別識別用であった。だから2灯が左右非対称なのだ。

2017-04-14 04:42:46
靖間 誠 @SEI_YASUMA

なお、これは戦後になって標識灯が2灯設置になったため、左右対称配置に改められている。

2017-04-14 04:45:32
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@ofJQkQTY4CyZHxl 割と真面目に言うと、モヨ100は阪和電気鉄道(現・JR西日本阪和線)が開業に当たって準備した車両、デイ100は新京阪鉄道(現・阪急京都線)が本線開業時に新造した車両ですね。どちらも京阪系の会社だったので、軌間は違いますが同じ系統の機器を搭載していて姉妹車的な存在です。

2017-04-14 07:54:07
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@ofJQkQTY4CyZHxl ちなみに「モヨ」はモーター付きの横座席(クロスシート)車を意味し、「デイ」は電動車の一番(いろは順)を意味します。ただ、後者の「デイ」が使われたのは新京阪鉄道が親会社だった京阪電鉄に吸収合併された後の話なので「新京阪デイ100」というのは厳密には誤りです。

2017-04-14 07:57:29
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@ofJQkQTY4CyZHxl 余談ですが新京阪では中型車P-4・5が「デロ」、小型車P-1が「デハ」で以後の事を考えていない記号付与をしていました。おかげでデイ100こと社内名称P-6(Passenger car-6)の後は記号を付けるのを止めています。また、阪和ではロングシート車が縦座席で「モタ」でした。

2017-04-14 08:05:13
くるーがー大将に狂い咲き @ALAMOLIMITED45

@SEI_YASUMA 自分は連合軍専用客車が専門ですが、それに負けないくらいアバウトな表記方法ですね。思わず「オイ」って突っ込みを入れたくなりますw たしか『鉄道ファン』の奥野さんによる白帯車の記事。あの号の表紙はデイ100だった気が。

2017-04-14 08:09:30
靖間 誠 @SEI_YASUMA

@ofJQkQTY4CyZHxl まぁ、新京阪の場合はちょっと事情がありまして。開業以来、電動車と付随車区別せずに一律P-1・4・5・6とやったのを鉄道省の担当官に因縁つけて記号を付けるよう「指導」されたらしく。 それでわざわざ嫌みで鉄道省なら一等車を意味する「イ」を看板電車たるP-6につけてしまったらしいです。

2017-04-14 08:18:57
靖間 誠 @SEI_YASUMA

それにしても、戦前関西私鉄が電車の形式に付与した記号は個性的というかバラバラで、各社の考えや時代性が見えて興味深い。 南海が「電・電附」→「モハ・クハ」、大軌が「デボ・クボ」、京阪新京阪線が「デイ・フイ」、叡山が「デナ」、嵐電が「モボ」、そして奈良電が「デハボ・クハボ」。

2017-04-14 08:11:00