【三国志】魏の浮華の徒と「画餅事件」についてのまとめ
なんとなくだが、浮華の徒は烈祖様の時代に指弾された後、正道を歩むことに切り替え、司馬懿の一派との結び付きを強めた連中と、浮華の徒のまま曹爽らとの繋がりによって成功しようとした連中に二分されたような感じがする。
2017-04-11 15:31:43@nyantarou0714 あの政変も大きな流れの中の一つですからね。そこに至るまでの様々な事象を把握しないと、背景は掴めないかと。
2017-04-11 16:37:45何晏は、浮華の徒の代表格である夏侯玄らより一回り上の世代。それでいて浮華の徒の精神的な支柱のような存在になっている感がある。何晏こそが浮華の徒の中心で、もともと何晏のところに集っていた高官の子弟が、次第に浮華の徒を形成したか? twitter.com/Jominian/statu…
2017-04-11 16:43:10例えるなら、何晏が司馬徽、夏侯玄や鄧颺が諸葛亮や龐統みたいな感じ。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-04-11 18:33:15曹爽一派が取り上げられる際は大体「何晏ら」という表現が使われるけど、 司馬懿の大傅祭り上げは鄧颺・丁謐、征蜀失敗は鄧颺・李勝(夏侯玄)と、案外個々への批判の時は何晏の名前出てこない気がする
2017-04-11 17:13:04傅玄「傅嘏は見識ある人物だから何晏・鄧颺・夏侯玄の破滅を予見して付き合わなかったんやで!」 孫盛松「傅嘏と荀粲は夏侯玄と親しかったぞ」
2017-04-11 18:06:57何晏はなんだかんだで夷三族(夷三族とは言っていない)だったし、司馬氏との縁が生きてたのか例の命乞いエピソードの効果は実はあったのか
2017-04-11 18:24:51信用ならないことでおなじみの傅玄の傅子。浮華関係者を徹底的にdisってるけど、身内に浮華から司馬氏側に移った人間がいるとなればその必死さとどうにか糊塗しようという理由もわかろうというもの。傅玄自身が、リアルタイムに浮華の絶頂と破滅を司馬氏側から見てるんだからなおさら。
2017-04-11 18:23:52スーパー烈祖様タイム
烈祖様は、太和三年の冬に平望観の名を聴訟観に改め、自ら裁判に臨む機会を設けた。これだけ見ると名君っぽいけど、魏略が秦朗について述べた部分では、烈祖様は裁判を好み、微罪でも死刑になる者が多かった、とある。つまり、聴訟観は死刑台みたいなもんで、烈祖様のこの逸話は暴君としての逸話である
2017-04-11 08:25:48@Jominian 「裁判が好き」を「死刑が好き」と言い換えることができる皇帝とか正直最悪やわ 話盛られている面もあるんやろけど、当時の人々は「魏って失敗だったわ・・・」みたいな印象だったんやろな、って思うわ
2017-04-11 20:28:46@Golden_hamster 皇帝自ら咎人の前に出て死刑を言い渡したりするんだろうから、見てる方からするとドン引きだったかもしれんね。
2017-04-11 20:46:05@Golden_hamster 令:「罪非殊死聴贖各有差。」 詔曰:「鞭作官刑、所以糾慢怠也、而頃多以無辜死。其減鞭杖之制、著于令。」 これの後、青龍四年に、死罪が多いことからその裁判を慎重にするように、という詔勅が出てるのは、烈祖様といえど「やべえ、殺しすぎた」とか思ったのかも分からんね。
2017-04-11 21:41:04呉が有名だが魏も校事と呼ばれる監察官を置いて、当時の臣下からしばしば諫言、批判を受けてきている。烈祖様の死刑が多いという評判も、このあたりと関連しているかもしれない。
2017-04-11 22:10:49「八達」は猟官活動の一環だった?
何晏や夏侯玄など、宗族かそれに近い立場の人間同士が互いを褒め合い形成したコミュニティに、李勝や鄧颺、諸葛誕らが繋がり、何晏の手法を真似つつ広げていったのが浮華の徒ではないかと思う。そして、鄧颺も李勝も諸葛誕も、高官の子とかではないので、浮華の手法に頼るのが世渡りと思っていたか。
2017-04-12 09:24:24南陽の鄧氏も、諸葛氏も、魏では後ろ盾になりそうな高官も出しておらず、本人たちも何らかのコミュニティでの重要な地位にいる感じもない。高官の子弟も加わってるからぼやけるが、浮華が政治的な活動になったのは、鄧颺たちの主導かも。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-04-12 12:56:24李勝はまだしも二千石を父に持つが、鄧颺や諸葛誕は浮華の徒として世に出る前の経歴が全く分からない。鄧颺も李勝も南陽の人間で、何晏も本貫は南陽。諸葛誕も諸葛亮と近いなら南陽と縁があるが。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-04-12 12:07:53