壇ノ浦の戦いとその後を少しまとめてみた

1185年(元暦2年/寿永4年3月24日)4月25日 長門国・赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた壇ノ浦の戦いとその後を訪れた史跡と共にまとめてみました。 前半部分は資料不足の為、壇ノ浦~義経の最期~鎌倉幕府成立から執権政治に至るまでをざっとまとめたものです。
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1185年(元暦2年/寿永4年3月24日)4月25日 長門国・赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦いで、栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いになりました。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/p6k6bXT7Q7

2017-04-25 13:41:38
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◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

治承・寿永の乱は平安時代末期の治承4年~元暦2年(1180年~1185年)に起こった大規模な内乱です。後白河法皇の皇子・以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり始めました。 pic.twitter.com/zoET4vRTI6

2017-04-25 21:20:08
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最終的には反乱勢力同士が対立しつつ、平氏政権の崩壊で源頼朝を中心とした坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至ります。一般的に「源平合戦・源平の戦い」とも呼ばれますが、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もあるようです。 pic.twitter.com/AYcbb7nXoV

2017-04-25 21:45:16
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山口県 下関市には赤間神宮が在ります。壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇を祀っています。江戸時代までは安徳天皇御影堂と呼ばれ、仏式で祀られていました。平家一門を祀る塚がある事でも有名で、前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台でしたが、廃仏毀釈により神社となって現在に至ります。 pic.twitter.com/KFCB3CqoPq

2017-04-25 22:02:03
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赤間神宮の敷地内に在る『耳なし芳一』の像。小泉八雲の小説で有名ですね。この像の横に平家一門の塚が建っています。#壇ノ浦の戦い #平氏滅亡 pic.twitter.com/hVwK1COMXY

2017-04-25 22:29:49
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ご存知の方も居るかもしれませんが、小泉八雲のお墓は東京豊島区の雑司ヶ谷霊園の一画に在ります。 pic.twitter.com/IryORjRouP

2017-04-25 23:39:29
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これは平家の一杯水という史跡です。壇ノ浦の戦いで深手を負った平家の武将が水溜りを見つけて飲むと真水だった為、もう一口飲もうとした所、海水に変わり、その場で力尽きたという伝説が残っています。碑の近くの渚に湧出る清水には祠が建ち、今も元旦の若水として赤間神宮の神前に供えられます。 pic.twitter.com/ELiqtLkr44

2017-04-25 23:55:30
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そして、赤間神宮からさほど遠く離れていない場所には御裳川(みもすそがわ)公園が在り、源義経公と平知盛の勇ましい像が建っています。私が訪れたのは2012年でしたが、当時はここで紙芝居を披露している地元の方が居ました。#壇ノ浦の戦い pic.twitter.com/d7d3rdPIV6

2017-04-26 00:26:17
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御裳川(みもすそがわ)公園からは関門橋がとても良く見えます。その橋の下に壇ノ浦古戦場址の石碑と弐位尼(=平時子・平清盛の妻で安徳天皇の祖母)が詠んだ辞世の句碑が建っています。#壇ノ浦の戦い pic.twitter.com/iGGVMLr0Y9

2017-04-26 00:35:40
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壇ノ浦の戦いから1年ほど経た1186年(文治2年)の新緑の頃。後白河法皇は大原の閑居への御幸を思い立ち、賀茂祭が過ぎた頃、後白河法皇は公卿・殿上人・北面武士らを引き連れて鞍馬街道を通り大原に向かいました。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/w4K06M7Gx0

2017-04-26 21:08:29
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後白河法皇がお訪ねになった方は、壇ノ浦の戦いで海に沈んだと思われていた、安徳天皇の生母・建礼門院徳子でした。壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失い京都に戻った徳子は、ここ大原の寂光院で平家の菩提を弔いながら、ひっそりと暮らしていたのです。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/tymuvYSZtL

2017-04-26 21:14:54
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実は入水した建礼門院は安徳天皇の異母弟の守貞親王と共に海中から助け上げられ、源義経と共に京都に連れてこられていました。その後、徳子は次女と共にこの大原に隠棲し、平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていました。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/AScG2hcOfP

2017-04-26 21:27:26
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後白河法皇と徳子の対面は、「平家物語」の【大原御幸】という物語の最後に描かれています。その中で徳子は自身が平清盛の娘として生まれ、一時は全てが思いのままで有った事・木曽義仲によって都を追われ最後は壇ノ浦で入水するも死にきれなかった事などを語り始めます。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/rdZZgZwpKr

2017-04-26 21:32:29
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この故事は物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読されました。大原御幸後の徳子の動静は、はっきりしていません。「吾妻鏡」の記録では1187年(文治3年)2月「源頼朝が平家没官領の中から摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」事が残る程度のようです。#平家物語 pic.twitter.com/iU7COFyuVp

2017-04-26 21:42:53
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没年は諸説あり、1191年(建久2年)2月に没したとするものや、1213年(建保元年)に生涯を閉じたとする説など様々です。歴史ある寂光院ですが、2000年(平成12年)5月に放火で本尊の地蔵菩薩立像(重文)が焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像も焼けてしまいました。 pic.twitter.com/gXjVKWRnfp

2017-04-26 22:14:13
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犯人は未逮捕のまま、2007年(平成19年)5月に公訴時効成立。現在の本堂は2005年(平成17年)6月再建され、同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も安置されています。宝物殿は「松智鳳殿」という名称で2006年(平成18年)10月に開館しました。 #平家物語

2017-04-26 22:18:27
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徳子の陵墓はもともと境内敷地にありましたが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されています。陵は寂光院に隣接地した大原西陵。また京都府京都市東山区の長楽寺にもお墓があるようです。#壇ノ浦の戦い #平家物語 pic.twitter.com/CacAvfeFnp

2017-04-26 22:23:28
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壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした功労者の源義経もまた、平家滅亡後に兄・源頼朝と対立します。1185年(元暦2年)10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するも失敗。逆に追討の宣旨を出されて追われる身となります。#壇ノ浦の戦い pic.twitter.com/ypDsdMuVRc

2017-04-26 22:33:24
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追い詰められた義経が頼ったのは、奥州平泉の豪族・藤原秀衡でした。秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶ事を警戒し、義経を将軍に立て対抗しようとしますが、1187年(文治3年)10月に病没。頼朝は後を継いだ藤原泰衡に朝廷を通じ義経の捕縛を求め強く圧力をかけます。 pic.twitter.com/yDw2V5wdyl

2017-04-26 23:17:01
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奥州藤原氏は、初代清衡以来、三代100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨し、三代秀衡の時代には陸奥守・鎮守府将軍の官職を得て、名実共に奥州を支配する存在となっていました。平氏討滅後の源頼朝にとって、鎌倉政権の安定の為には潜在的脅威の奥州藤原氏を打倒する必要があったのです。

2017-04-26 23:22:50
◇もえ@低浮上◇日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

この要請には頼朝の計略がありました。義経追討を自身が受けて奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘するリスクがあります。泰衡に義経を追討させる事で2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させて奥州の弱体化を図ろうとしたのです。#壇ノ浦の戦い #その後 pic.twitter.com/23pqQuWxDp

2017-04-27 20:33:13
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結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈します。父・秀衡の「義経の指図を仰げ」という遺言を破り、閏4月30日 500騎の兵は僅か10数騎の義経主従を衣川館に襲います。義経の郎党たちは防戦するも、ことごとく討たれていきました。#壇ノ浦の戦い #その後 pic.twitter.com/kVLKEGkL56

2017-04-27 20:55:41
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館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦わずに持仏堂に籠ります。そして正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てたのです。享年31歳でした。 岩手県西磐井郡平泉町には「高館義経堂」と呼ばれる史跡がひっそりと建っています。#壇ノ浦の戦い #その後 pic.twitter.com/6Yny3aW59F

2017-04-27 21:00:13
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敷地内には義経の供養塔や、1689年(元禄2年)6月には松尾芭蕉が来訪し、詠んだ「夏草や 兵共が 夢の跡」で知られる句碑が建っています。泰衡は義経の首を頼朝に引き渡す事で、頼朝との和平を模索しますが関東の後背の独立政権を恐れた頼朝は義経を長らく匿った事を罪として奥州に出兵します。 pic.twitter.com/RDaJgY8OlV

2017-04-27 21:19:39
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泰衡は贄柵(現:秋田県大館市)で家臣の造反により殺されます。栄華を誇った奥州藤原氏はここに滅びました。平家滅亡で源氏の勢力が強くなった事、奥州に深く関わっていた義経と頼朝との対立などで中立が維持出来なくなった事も滅亡の原因となったようです。#壇ノ浦の戦い #その後 pic.twitter.com/aIXq7DFiHu

2017-04-27 21:57:42
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