折鶴蘭の少女 1 糸のように尾を引く雨が、高原を包んでいた。雲は低く垂れ込め、ツタに覆われたレンガ造りの洋館を押し包むように見える。 「バス停から近くて助かったね」 二人組の女性の、一方がそう言った。緑色の、つばが広い帽子をかぶっていて、チークは少し薄目にしている。 2へ
2017-05-09 13:53:192 もう一方は、曖昧にうなずいた。背丈は相方同様に平均値と言ったところで、まっすぐ伸びた黒髪を後ろで束ねている。 それぞれ傘をさし、洋館まで歩く内に、帽子を被っている方のスマホがバッグの中で振動した。 「あ、藍斗さんだ。窓から見えますだって」 スマホを出した彼女は、 3へ
2017-05-09 13:58:213 内容を読み上げてからスマホをしまい、洋館を眺めた。雨を透かして、なるほど、一人の女性が窓越しに手を振っている。 「きゃーっ、藍斗ちゃんが呼んでるーっ。おーい」 帽子を被っている女性は、叫びたいのを抑えながら手を振り返した。もう三十路にさしかかろうと言う歳だが……黒髪の 4へ
2017-05-09 14:01:564 相方もほぼ同い年だが……そうしてはしゃぐ様子は若々しく思えた。相方はと言うと、軽く手を上げたにとどまる。とはいえ、嬉しそうな表情に変わりはない。 洋館の出入口に至り、二人は傘を畳んだ。傘立ての脇に、傘を収納するビニール袋がまとめて吊るしてあったので、一枚ずつ破って 5へ
2017-05-09 14:05:275 傘を入れた。赤いマットを踏みながら玄関を開ける。ドアの横には、『高原ホテル アイビー』と記された看板が立ててあった。それを横目に、二人はロビーに入った。 「雅さん! キョーカさん!」 「藍斗ちゃん!」 二人と一人が合流し、笑顔が弾けた。幸か不幸か他に客はいない。 6へ
2017-05-09 14:11:196 「ひとまずチェックインしてくるから、待ってて」 雅……帽子を被った女性は言った。藍斗はうなずいた。雅とキョーカの二人組を迎えた彼女は、三人の中では一番若く、清楚でつつましやかな顔立ちをしていた。実際、ほっそりした身体つきに青いジーンズが良く似合っている。 7へ
2017-05-09 14:20:477 ロビーには、ゆったりした一人がけの黒いソファーが二十脚ほどあり、いずれも四つ一組で分厚いガラス製のテーブルと対になっていた。壁際には暖炉が構えられ、薪が勢い良く燃えている。ほんの少しだけ首をかしげ、藍斗はバッグからスマホを出した。何の着信もない。 「お待たせ」 8へ
2017-05-09 14:24:038 「お帰りなさい」 「サミヤンヌ、まだかな」 キョーカがぼそっと聞いた。 「まだです。連絡くらいする子なんですけどね」 藍斗が答えると、雅も唇をきつめにすぼめた。元々、四人で落ち合う予定なのだ。ぼつぼつ約束の時間が過ぎようとしている。 サミヤンヌ……佐宮と言う 9へ
2017-05-09 14:27:259 その女の子は、藍斗よりさらに若く、その癖大人顔負けのしっかり者で苦労人だった。もっとも、三人とも、ネットでしか佐宮を知らない。それ以上に、地元が同じで最初から友人同士の雅とキョーカ以外は全て初対面だ。とある創作サイトのオフ会として、初夏の北海道が選ばれたのである。 10へ
2017-05-09 14:32:4710 「とりあえず、お部屋に行こうか」 雅が提案すると、キョーカも藍斗もうなずいた。三人でエレベーターに入り……ボーイがつくほど高級なホテルではないので、各自が自力で荷物を運んだ……五階の一室に至った。五人部屋の和室を取ったのは、旅の目的からしても財布の面からしても 11へ
2017-05-09 14:38:0611 至極当然の配慮と言えよう。 「よいしょ」 キョーカが荷物を畳に降ろし、雅もそれに習った。 「お茶入れますね」 藍斗が、床に膝をつきながら、急須に手を伸ばす。 「わっ、ありがと~。女子力高いね~」 雅がおどけて言うと、藍斗は顔を赤らめた。 「違います……あれ?」 12へ
2017-05-09 14:41:2812 藍斗のスマホが着信を告げ、彼女は急須を置いてバッグを開けた。 「サミヤンヌからです! ちょうど、すぐ外にきたですって!」 「えっ? どこどこ?」 雅が窓辺に近寄り、キョーカもすぐに続いた。藍斗は一番遅れ、年長者二人の間にちょこんと顔を出す形になった。 「霧か……」 13へ
2017-05-09 14:44:5713 雅が、聞くだにがっかりした声を上げた。雨が止んだのは良いとして、濃い霧が立ち込め始めている。 「あ、人影」 キョーカが指をさした。一人の影が、ホテルの角にある外灯の下に見える。まだ夕方にもなっておらず、外灯は明かりをつけていない。人影が誰なのかは分からなかった。 14へ
2017-05-09 14:48:4014 「サミヤンヌかな?」 藍斗は二人の胴体に挟まれたまま言った。 「行って確かめようよ。他に人はいなさそうだし」 雅が持ちかけ、二人はうなずいた。茶を飲む暇もなく、三人は部屋を出た。 続く
2017-05-09 14:50:47折鶴蘭の少女 15 三人は部屋を出た。雅が鍵をかけて、それからまとまってエレベーターに乗った。早く佐宮に会いたい一心は皆同じだったが、反面、あの人影がそれだと言う保証はない。ただ、エレベーターには早く一階に至って欲しい。 時間にすれば、三十秒とかからず、一同は一階の 16へ
2017-05-10 23:32:0716 床を踏んでいた。 「すみません、外出するので鍵を預かって頂けますか?」 フロントで、雅が鍵を出した。 「かしこまりました……ただ、お客様、外はとても濃い霧でございます。失礼ですが、遠くにお出かけですか?」 雅と藍斗の中間くらいの女性が、カウンターの向こうから 17へ
2017-05-10 23:36:5917 丁寧に聞いた。 「いえ、すぐ近くです」 「それでございましたら、そんなに危険ではございませんが、念のために懐中電灯はいかがでしょうか。当ホテルの備品で、お戻りになられた折りにご返却下されば差し支えありません」 「そんなに暗いんですか?」 雅は、思わず外を見やった。 18へ
2017-05-10 23:39:5718 確かに、吹きつけるような白い息吹が少しずつ強くなっている気がする。 「借りときますか?」 雅が尋ねると、キョーカも藍斗も同意した。 「はい、じゃあ甘えます。気を遣って下さりありがとうございます」 「いえ、とんでもございません。少々お待ち下さいませ」 従業員は 19へ
2017-05-10 23:49:2319 鍵を預かり、それをしまいがてら奥にある部屋に入った。大して間を置かず、懐中電灯を三つ持ってくる。赤い本体に黒縁のカバーガラスがついた品で、どこででも売っているものだ。 「お待たせ致しました。どうぞ」 懐中電灯を受け取った雅達は、改めて礼を述べた。その時、 20へ
2017-05-10 23:56:0320 従業員は何かをはっと思い出した表情になった。 「あ、申し訳ございません、今一つございました。この辺りの霧は、帯電しております」 「帯電?」 何とも科学的な台詞に、雅は少し首を捻った。 「はい、電子機器に直接の影響はございませんが、通信も通話も非常に難しくなります」 21へ
2017-05-10 23:59:4021 それは、自然現象である以上どうしようもなかった。遭難したくなければ、ホテルが見える範囲でしか行動出来ない。もっとも、三人の誰一人として、大冒険に踏み出すつもりは全くない。 「何から何までお世話になります。どうせすぐ戻りますし、ご心配するほどでもないですよ」 22へ
2017-05-11 00:03:4922 「かしこまりました。行ってらっしゃいませ」 「どうも」 三人はフロントから遠ざかり、玄関を出た。そこで初めて、ホテルの空気との不協和音に気づいた。 「サミヤンヌ……こんな湿っぽくて冷たい空気の中に立ってるの?」 藍斗が、両腕で自分の胴体を軽く抱えながら言った。 23へ
2017-05-11 00:07:4323 「サミヤンヌが来たら、まずあたしが暖める」 懐中電灯のスイッチをつけて、雅がおごそかに宣言した。 「駄目です。サミヤンヌは私が介抱するんです」 藍斗は譲らなかった。 「あのー……。あたし、爪先でいいから」 微妙に良く分からない謙虚さを発揮するキョーカ。 24へ
2017-05-11 00:10:3424 三人は、各自が懐中電灯をつけて、人影がいた方向へ進んだ。その頃には、遠くの風景はおろか、伸ばした手も分からなくなりそうなほどになった。ただ、ホテルの外壁と、互いの懐中電灯の明かりだけが、一同を辛うじて文明や秩序に繋げている。 「確か、この辺りだったような……」 25へ
2017-05-11 00:14:1225 独り言めいた台詞を呟きつつ、雅は、漠然と懐中電灯を左右に向けた。たまたま、その光が、倒れている人影を照らした。 「あっ! 誰だろう」 雅が驚いたのに刺激され、残る二人も懐中電灯の光を集中させた。雅が目にした誰かが幻でないのは、それで確実に分かった。誰からと 26へ
2017-05-11 00:17:44