「浮浪児1945-」から考える上野を中心とした戦災孤児について

太平洋戦争の末期、東京大空襲で焼け出され家族を失った孤児たちは、戦後をどのように生き、どのように死んだか。
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はじめに

 本まとめの内容はすでに以下の通りまとめていただいておりますが、いろいろと追記がありまして、個人的な備忘録として新たに作成しております。なので重複ご容赦ください。

まとめ 敗戦後「闇市」のこと 「浮浪児1945」からの抜粋&紹介の由。備忘録として。https://t.co/UFPrdOfV7a 17209 pv 99 4 users 19

ここから本編

石井光太 @kotaism

『浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち』が、7月末に新潮文庫になります。僕は「自分の本で何が好きか」と言われたら、この本を挙げます。8月23日には刊行イベントもあります⇒石井光太×城戸久枝「あの戦争、引き裂かれた家族」passmarket.yahoo.co.jp/event/show/det…\\\\ pic.twitter.com/kFsqHvLzx1

2017-07-18 17:36:15
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リンク www.shinchosha.co.jp 石井光太 『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』 | 新潮社 1945年の終戦直後、焼け跡となった東京は、身寄りのない子供たちで溢れていた――全国では、12万人以上。復興と共に街が浄化され、居場所を失い歴史から“消え去った”彼らを、残された資料と当事者の証言から上野を中心に現在まで 37
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

「終戦を機に、上野にいた大人たちは別人のように冷たくなりました。…戦時中は勝利に向けて団結していましたし、日本人同士最後まで助け合おうという精神がありました。…戦争に負けた途端に、人々から情が消えました。(戦中は浮浪児にも食料を分けてくれたのに)邪魔者扱いされて追い払われる」

2017-07-18 09:44:15
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

戦後の闇市は「解放国民」と呼ばれた在日外国人が関わっていた(禁制品を売買しても取り締まられない)。戦中はどうだったんかしら。

2017-07-18 10:05:31

残飯シチュー

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

「残飯シチュー」は「この世界の片隅に」に登場しているが、新宿のしょんべん横丁(現思い出横丁)でも売られていた。残飯だけでなくゴミも大量に混ざっているがいちいち確認などせず、キロ単位で買い付けた残飯をまとめて鍋にぶちこんでいた。猫の死骸や使用済みコンドームもあった。

2017-07-18 10:21:11
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

しかしそれでも「残飯シチュー」は格別のうまさであった。焼け野原で雑草やネズミを食って生きてきた人間からすれば、涙が出るほどうまいものであった。値段は五円前後で、屋台のうどんやそばと同じくらい。わざわざ遠方から食べに来る人もいたという。

2017-07-18 10:25:25
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

残飯を米軍基地から仕入れてくるのは浮浪児や専門業者であるが、とにかく人気で行列がすごいので、具材を持ち込んでくると中身を確認する暇もなくぶちこんでいたわけである。さすがに店は「残飯シチュー」などと呼ぶことはなく、新宿では「どんどん煮」、「ごっちゃ煮」と呼ばれていた。

2017-07-18 10:28:54
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

こうした残飯メニューを扱う店が増えたことから、後にもつ煮を扱う店が増えたという。

2017-07-18 10:31:14
リンク Wikipedia 残飯シチュー 残飯シチュー(ざんぱんシチュー)は、太平洋戦争終戦直後(1945年〈昭和20年〉から1946年〈昭和21年〉頃)の日本の闇市で提供されていた料理の一つ。「シチュー」とは名ばかりで、当時の日本を占拠していた連合国軍最高司令官総司令部(以下、進駐軍と略)の残飯を再利用したものだが、東京都など各地の闇市で大変な人気を呼んだ。進駐軍の食堂から出た残飯が非正規のルートで闇市へ運ばれ、これを大鍋にあけ、水を加えて煮込み直すことで作られており、調理器具は鍋の代りにドラム缶が用いられることもあった。そのほかに手を加えるこ 13

※wikipediaの信頼性というものはたびたび話題になります(特に歴史考証などの分野で)が、入り口としては分かりやすいので参考までにリンク張っておきます。

エス @FreeTIBET2008

「残飯シチュー」空手バカ一代(梶原一騎・つのだじろう)のシーンを思い出すわ pic.twitter.com/x5QZuysqKq

2017-07-18 22:27:50
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傷痍軍人

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

戦後の路上には浮浪児の他、傷痍軍人がいた。駅前で白い患者服を着てアコーディオンやハモニカを演奏しながら物乞いするわけだが、五体満足なのに白い服を着て盲目のふりをする偽物も多かった。そういう連中はめざとく一番儲かる場所に陣取る。

2017-07-18 10:38:45
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

だか本物は盲目だったり手足を失っていたりするのでそうした稼げる場所には行けず、警察の取り締まりからも逃げられない。なので地下の人通りが少ない場所で、壁に向かって一人歌い続けるようなのもいた。ある程度稼げる浮浪児はこうした傷痍軍人に施しをして、勉強を教えてもらうこともあった。

2017-07-18 10:41:23
伊豆平成(ノベライズのお仕事中。オリジナルも書きたいっ!) @IzunoHiranari

@ele_cat_namy 傷痍軍人、子どもの頃に上野公園で見ました。四十年後半ぐらいかなあ。

2017-07-18 12:09:10
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

@IzunoHiranari 上野駅が交通の要所だったことと空襲で焼け残ったことから、路上生活者が多く集まったようです。私も新宿かどこかで見た記憶があり、その時は子供で普通のホームレスと違いがわからなかったのですが、後で傷痍軍人のことを知ってなにやら腑に落ちた記憶があります。

2017-07-18 12:22:17

テキヤ(露天商)

⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

テキヤの発祥について。闇市を仕切る外国人に対抗させるため、警察がテキヤ組織に組合を作らせ、闇市の治安維持を任せた。当時の警察は銃も持っておらず、また外国人を取り締まることもできなかったし、闇市の存在を公的に認めることもできなかった。この時点でのテキヤ組織はいわゆるヤクザとは別物。

2017-07-18 10:54:03
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

「テキヤは市民からは好かれていた。…雑用係みたいな面もあった」引っ越し業者なんてなかったから、引っ越しの際にはテキヤの親分が子分を派遣してくれた。そうすることで市民の信頼を得て、本業の商売を円滑に進める狙いがあった。

2017-07-18 10:58:28
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

テキヤは組合員が外国人ヤクザに恐喝されていれば棒や日本刀を振り回して追い払ったし、酔った米兵が暴れていれば集団で取り押さえた。そうした暴力的な面はあったが、ヤクザではないから、本業はしごくまっとうなものであった。

2017-07-18 11:00:10
⚡波島想太🐈 @ele_cat_namy

ヤクザが当時のテキヤと異なるのは、販売するものが偽造したタバコや金券、当時禁制のポルノ写真など違法なものであるという点だった。それまでは賭場が主な収入源だったが、日本全体が困窮して賭博どころではなくなり、別の稼ぎを探していたのである。

2017-07-18 11:05:07
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