前田高地の戦いの個人的メモ 「ハクソー・リッジ」を観て

連続ツイートまとめ
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島の人Part2 @simasyodes

4月26日の段階で外間氏がいた第三十二歩兵連隊(指揮官志村恒雄大尉以下志村大隊とする)は前田高地近くに到達していたが敵情不明だった。前田方面から避難してくる住民からすでに米軍が前田集落に入ってきたことを知る。すでに19日には第一防衛ラインは突破されている。

2017-07-22 17:24:40
島の人Part2 @simasyodes

志村大隊に「貴重な米軍情報」を与えたのは住民の老人だった。当初は「方言」を喋り殺気立った部隊に怯えていたのを「スパイ」と勘違いされ処刑されそうなところを方言がわかる外間氏が間に入り、聞き出した情報だった。(老人は後に放免された)

2017-07-22 17:24:52
島の人Part2 @simasyodes

志村大隊は後に前田高地へ到達、すでに戦闘中だった第六十二師団独立歩兵第十二大隊の賀谷中佐と合流している。

2017-07-22 17:25:07
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玉砕を覚悟していた外間氏に「死ぬだけがご奉公じゃないぞ」と最後まで話した人物がいた大隊の小隊長日原正人中尉だった。彼は朝鮮半島出身者で李朝の流れを汲む日本の陸士卒の士官だった。戦後、半島に渡り革新運動に加わり処刑されたと伝えられる。

2017-07-22 17:25:49
島の人Part2 @simasyodes

死守したい日本軍は再々命令を下すが弾薬もなく、次第に消耗していく。志村大隊も大隊長の志村大尉(陸士出身)24歳、大場庄太郎中尉(叩き上げ実戦経験あり)が白昼の肉弾戦車攻撃を命じる志村に大場は「無謀」と反論して兵を出していない。

2017-07-22 17:26:03
島の人Part2 @simasyodes

5月4日第32軍は攻勢に出るが失敗、9日ついに前田高地も占領され31日に首里から南部へ撤退した。外間氏は志村大尉とともに前田高地を脱出、終戦知らず9月3日まで逃避行を続けていた。800名にいた大隊は29名になっていた。

2017-07-22 17:26:27
島の人Part2 @simasyodes

ちなみに「ハクソーリッジ」の舞台の前田高地が他にも浦添城趾(琉球王朝は首里城の前はここを本拠地にしていた)や浦添ようどれ(琉球王の墓)沖縄学の父と呼ばれた伊波普猷の墓があるので沖縄を訪れた際はご覧になって下さい。

2017-07-22 17:27:08
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city.urasoe.lg.jp/docs/201705020… 浦添市役所のハクソー・リッジのページ 6/16の講演会 私、参加しまして写真見たら(いました)(^_^;)

2017-07-22 17:27:45
島の人Part2 @simasyodes

おまけ 嘉数の戦闘だが軽く触れると日本軍が頑強に抵抗できた理由大事な防衛ラインというのもあるが、黄色丸の部分「比屋良川」って川がある。川幅は小さいが水深があり、戦車やトラック(米軍は結局、橋架けた)は通れずこれが天然の「堀」みたいな役割を果した。 pic.twitter.com/KbykAJhP2Y

2017-07-22 17:30:36
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参考資料 外間守善 私の沖縄戦記 沖縄 日本軍最期の戦闘

2017-07-22 17:30:47