アブー・ザイード・カンの物騒な横恋慕のエピソードから始まる、13世紀イルハン朝の大黒柱、アミール・チューパーンにまつわるお話

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きっかけはマミーさんの投稿したこのイラストから。

@88888888mamy

13世紀初頭、中東にチンギスの血を引く大国-”イルハン朝”が存在しました。君主が家臣の奥さんに横恋慕ってよくある話だけど、アブー・ザイード・カンが惚れた相手は彼の後見人大アミール・チョバンの娘、バグダート・ハトゥンちゃんだったのが不幸の始まり始まり。ムスリムになってもモンゴルは狼だ。 pic.twitter.com/LpOyDh0wxO

2017-11-09 08:31:25
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もんけ(歴史)مونککاکا _تاريخ ꡏꡡꡃ ꡁꡁ ꡈ ꡝ ꡘꡨꡣ @mongkeke_tarikh

ほう!マミーさんがアブー・サイード・バハードゥル・カン Abū Sa`id bahādur Khān とバグダード・カトン Baghdād Khātūn のお話を書かれるとな!|ω・)>あとカトンのパパのアミール・チューパーン

2017-11-09 21:07:42
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説明しよう!アミール・チューパーン Amīr Chūpān とはスルドス部族出身のイルハン朝のオルジェイトゥ〜アブー・サイード・バハードゥル・カン時代の筆頭部将で、あの!(元朝秘史の逸話で有名な)ソルカン・シラとその息子チラウン・バアトルの直系子孫のひとりなのだ!|ω・)

2017-11-09 21:24:00
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このチラウン・バアトルは帝国草創を支えた「四駿(dörben külü'üd)」と称された4人の功臣達の一人(他はムカリ、ボオルチ、ボロクル)で(その名に違わぬ勇猛さ故に)戦傷死してしまい、ソルカン・シラ家の当主はチラウンの一人息子だったらしいスドン・ノヤン Sūdūn Nūyān が長らく担ったようだ。

2017-11-09 21:33:17
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そして、スドン・ノヤンの息子達の多くがフレグと共にイラン入りした。そのスドンの息子達のうち、一番年長だったのがスンジャク・ノヤン(スグンチャク)だった。バグダード包囲戦でティグリス西岸からバイジュ・ノヤンらと共に左翼部隊を統率していた。>どうも軍中ではバイジュより偉かったっぽいw

2017-11-09 21:40:09
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スンジャクはそもそもフレグの親衛軍団ケシクの長で、フレグ旗下の諸オルドの統括を担い、後にイルハン朝の大断事官(イェケ・ヤルグチ)としてアルグン時代までイルハン朝の中枢を采配していた、同王朝でも最重要人物のひとりだった。チューパーンにとり彼は大伯父にあたる。

2017-11-09 21:45:38
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その大功臣スンジャクも、アフマド・テグデル・カンと諸王アルグンとの抗争の合間に没落してしまったようで、テグデル・カンを擁立した中心人物であったのに、「何故か」テグデル政権から干されてしまい、その権力は有名無実化したままアルグン即位後しばらくして亡くなったらしい。

2017-11-09 21:50:02
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テグデル処刑の前後にテグデルによる討伐命令が出された事を諸王アルグンから詰問された時、スンジャクは「自分はアフマド・カンから即位の後全く尊重されず政務からも遠ざけられ、殿下討伐命令も無理矢理に同意させられたのです。アフマド幕下では私はただの力ない老いぼれに過ぎませんでした」云々

2017-11-09 21:56:04
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と釈明を行っているが、某宮さんはここら辺の事情は同時期の東方の「チンキム・クーデター政権」の樹立と絡んだ話しではないかと疑ってるらしいw >実際集史のここら辺の記述は口に物が挟まった感じの微妙な記述がそこかしこにあって、非常にきな臭いw

2017-11-09 21:59:11
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一応、アルグン時代もスンジャクは存命していたのだが、ガザン時代まで彼の兄弟やその子供達の動向は微妙な感じになる。そしてガザンの即位しばらくして徐々に頭角を現して来たのが、アミール・チューパーンだった。彼はスンジャクのかなり年少の弟トダン Tūdān の子マリク Malik の、恐らく一人息子だ

2017-11-09 22:04:18
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「恐らく」というのは、チューパーンの父マリクの動勢が集史をひっくり返しても余り良く分からないからだが、(これも恐らくだが)その原因は、十中八九ある人物が関係している。 それは… マムルーク朝のスルターン・バイバルスだw

2017-11-09 22:08:07
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1277年4月、スルターン・バイバルスの親率軍はアレッポ経由でルーム地方に侵攻した。これはルーム・セルジューク朝の宰相ムイーヌッディーン・パルワーナの教唆によるもので、ルームでのスルタン家やイルハン朝君主アバカとの揉め事からバイバルスにルームの統治権を明け渡す云々と持ち掛けたらしい

2017-11-09 22:30:42
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そこで、バイバルス軍は集史でいうアーブルスターン、現在のトルコのアルビスタンらしいが、1277年4月16日金曜日、モンゴル軍の前線守備部隊1万数千騎と会戦する事となった「エルビスタンの戦い」というらしい。 en.wikipedia.org/wiki/Elbistan en.wikipedia.org/wiki/Battle_of…

2017-11-09 22:38:25
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このイルハン朝側の守備隊は万戸長が三人おり、千戸隊は十一個だったらしい。その三人の万戸長とは、(フレグの部将筆頭)イルゲイ・ノヤンの五男トク توقو Tūqū、同じく九男ウルグトゥ اورغتو Ūrghtū、そしてスドン・ノヤンの子でスンジャクの弟トダウン توداؤن Tūdā'un だった。

2017-11-09 23:05:13
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集史スルドス部族誌やアバカ・カン紀等ではトダン تودان Tūdān ないしトダウン توداؤن Tūdā'un と書かれるが、ともかく彼もトクもウルグトゥもイルハン朝の中枢を担う重要人物達の弟や息子達で、アーブルスターンはアーザルバーイジャーン地方からの先鋒としてルームやシリアを睨む要衝の地だった。

2017-11-09 23:11:13
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バルヘブラエウスによると、この3つの万戸軍団には三千人のグルジア人部隊も随伴していたそうだが、アバカ・カン紀によればこの4月下旬の戦いは酷く寒い中で会戦したそうで、「トクとトダウンは兵と共に下馬して激しく戦った」のだという。そう、「モンゴルの騎兵が下馬して戦った」のだ(ここ重要

2017-11-09 23:19:34
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「モンゴルの騎兵が会戦等で下馬して戦う」というのは「その場に留まって捨て身で戦う」という事である。具体的に言うと、立ち膝になってその膝を弓の弦や紐で縛り付け、突撃する相手方にがんがん弓矢で狙撃する、という事だったらしいが、守備部隊の司令であるトクとトダウンが兵達とそれをやったのだ

2017-11-09 23:24:53
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「(会戦で)下馬して戦う」とはまさしく「死兵」となる覚悟で戦うという事なのだが、実際彼らは迫り来るマムルーク朝軍の騎兵に対して雨のように矢を打ち込んだらしいが、バイバルスは戦陣を切ってジハードでの死を讃美して突撃し、これに鼓舞されたマムルーク朝軍は彼らを辛くも撃滅したらしい

2017-11-09 23:29:52
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こうして、昼頃にはイルハン朝軍は文字通りほぼ全滅状態だったそうで、トクもトダウンも(そしてウルグトゥもそうらしいが)戦死したのだそうだ。バルヘブラエウスによれば件のグルジア軍部隊も二千人が戦死したそうで、つまりは3分の2が戦死する大激戦だった事になる。

2017-11-09 23:33:59
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バイバルスはエルビスタンでの勝利に安堵するのもそこそこ、四日後の同4月29日ルームセルジューク朝の首都、カイセリに入城した。件のバイバルス伝等マムルーク朝側の資料によれば、そこでバイバルスはセルジューク朝のスルタンのように傘蓋を掲げられ王宮まで来るとスルタンの後宮の妃妾達に挨拶をし

2017-11-09 23:45:22
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スルタンの玉座に即いたらしい。王宮に入る時、まずスルタンの玉座で王冠を頂いて玉座に着座し、後宮のカトン達に挨拶を言付けして、再び玉座に即いて、セルジューク朝のスルタンの即位儀礼を盛大に執り行ったそうだが、この日は金曜日だったのでカイセリの大モスクで金曜礼拝を執り行ったという。

2017-11-09 23:51:23
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ところで、ルーム・セルジューク朝のスルタンが普通にいるはずなのだが、何をしていたのかと言うと、当時未だ14,5歳だったスルタン・ギヤースッディーン・カイホスロウ3世(位1266-84)は件の宰相パルワーナに4歳の時に即位させられた傀儡状態で、彼はパルワーナとともに居た。

2017-11-09 23:57:29
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宰相パルワーナはエルビスタンの会戦のイルハン朝側に居たそうだが、戦闘での混乱中に逃げ出し、バイバルスよりも1日早くカイセリアからスルタンを連れ出して黒海に近いトカト市の城塞に逃げ込んで引き蘢りを決めていたらしいw

2017-11-10 00:03:13
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そこでカイセリアのバイバルスに即位の祝賀を送ったそうだが、これにはさすがのバイバルスもすこぶる怪しいと不信感を募らせる事になった。バイバルスはパルワーナの導引を信じてルームの民達はイルハン朝のアバカを見限ってバイバルスに組する物と考えたらしいのだが、

2017-11-10 00:09:12
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