アブー・ザイード・カンの物騒な横恋慕のエピソードから始まる、13世紀イルハン朝の大黒柱、アミール・チューパーンにまつわるお話

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ルーム地方のセルジューク朝旗下のアミール達はバイバルスの召喚に殆ど応じなかったらしい。アバカの怒りを恐れたせいだったという。これは情勢は不利であると悟ったバイバルスは入城五日後の5月4日にはカイセリアを出て帰路についた。

2017-11-10 00:16:47
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ここでバイバルスはムスリム住民には征服後の統治を見越して掠奪は犯さぬよう下知していたそうだが、行掛けの駄賃とばかりアルメニア人始めキリスト教徒若干を殺害したのだそうだw 多分、ルーム地方と併せて小アルメニア王国からの支援を期待していたが、それも当てが外れての腹いせの類いだろうか

2017-11-10 00:19:32
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バイバルスは5月中旬にはシリア領まで戻り、6月16日にはダマスクスに入城した。そして二週間後の7月1日に同地で死去した。死因は割と有名な話しだがw、ダマスクス市の南西にあった離宮(名前ど忘れw)での宴席で、クミズを飲んで後に体調を崩し、そのまま亡くなったものらしいw

2017-11-10 00:42:50
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さて、話しをエルビスタンの戦い直後に戻すが、イルハン朝君主アバカはバイバルス軍が小アルメニアとルームに侵入したとの知らせを聞き(当然w)激怒した。同年7月中旬(サファル月)押っ取り刀で首都タブリーズを進発すると、会戦のあったアーブルスターン周辺で下馬した。

2017-11-10 00:53:03
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ここら辺の集史の時系列がいまいち良く分からないのだが、アバカ・カン紀はバイバルスの死去日時を676年ズルヒッジャ月(1277年5月13日-6月11日)としているが、アバカがタブリーズを出立したのは676年サファル月(1277年7月11日-8月9日)だ。

2017-11-10 01:04:14
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マムルーク朝側の記録では7月1日にはダマスクスでバイバルスは逝去しており、アバカはその一週間以上後でタブリーズを出ている訳だが、アーブルスターンでの会戦からの2ヶ月余、アバカはどこで何をしていたのか?いまいち良く分からない。

2017-11-10 01:08:57
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実は1270年のチャガタイ家のバラクを打ち負かしていから、このバイバルスのルーム侵攻までのアバカの動勢は殆ど集史では書かれていないのだ。本田先生の論文「イルハンの冬営地と夏営地」を見ても1275年にカスピ海南西のアッラーンで冬営していた事は分かるが、翌1276年はさっぱり分からない。

2017-11-10 01:15:20
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この1277年にはアバカはアルメニアのヴァン湖の北岸にあったアラタグに夏営しているのだが、それはこのルーム戦役の事後処理を済ませてからで、7月(多分初旬)にタブリーズを出立するまでどこら辺に居たのか良く分からない。

2017-11-10 01:19:34
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アバカは即位から三年連続、ジョチ・ウルスのベルケとの戦闘を期間をカスピ海南岸のマーザンダラーン地方で冬営している。バイバルスを追撃するにしても2ヶ月近く行動が遅いので、東部のホラーサーンかマーザンダラーンで過ごしていた可能性が考えるが、やはり資料的に謎である。

2017-11-10 01:22:53
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もしかしたら、イブン・ビービー等のルーム・セルジューク朝側の資料に何らかのヒントがあるのかも知れないが、精読していないので何とも言い難い(^^; ともかく、押っ取り刀でアバカがタブリーズを出発した時には既にバイバルスはシリアに撤退した上とっくに死去したしまっていたのだw

2017-11-10 01:25:37
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それで烈火の如く怒り心頭のアバカはアーブルスターンまで軍を率いてやって来ると、ルームのスルタン・ギヤースッディーンらが迎えに伺候して来たそうだが、一面未だ屍が山積みだったそうで、アバカは彼ら将兵達のために泣き、戦死したトクとトダウンの為に大いに悲しんだという。

2017-11-10 01:31:47
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アバカはこの椿事の原因となったルームの有力者達を罰し、怒りをもってバイバルスになびいたルームの民や諸都市も掠奪を命じスィヴァス等の半分が掠奪に晒されたそうだが、

2017-11-10 01:38:27
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宰相 サーヒブ・ディーワーンであったシャムスッディーン・ジュヴァイニーが「帝王は個人の罪によって一般の民衆を罰したりはせぬものです」と上奏し、この取りなしでルーム地方の懲罰的掠奪は免じられたらしい。「個人の罪」とは言うまでもなくパルワーナ等のルームの首脳陣の事だ。

2017-11-10 01:41:26
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アバカは敗戦の責任としてルーム・セルジューク朝の将軍達、ヌールッディーン・ジャランキーとザヒールッディーン・ブン・フード両名を処刑し、トカトに引き蘢るパルワーナを召喚を命じている。そしてルーム地方の防衛と統治、トカト等のパルワーナの居城や拠点の破壊を庶弟コンクルタイに命じている

2017-11-10 01:50:50
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この諸王コンクルタイのルーム地方入部が後のアフマド・テグデル・カン時代にかなり重要な意味を持って来るのだが、ともかくアバカが先般のヴァン湖北岸のアラタグで夏営した時に、パルワーナが恐怖に震えながらオルドに出頭して来たという。

2017-11-10 01:55:26
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(ここからの集史の展開は芝居じみているのだがw)そこで列席の諸将達はパルワーナの罪状を3つ上げて糾弾した。曰く 1)敵から逃亡した事。 2)バイバルスの(1271年以来の)再来を直ちに報告しなかった事。 3)(バイバルス撤退後)直ぐに御前に伺候して来なかった事。

2017-11-10 02:02:37
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これらの罪状により一先ずパルワーナは投獄を命じられたが、程なくバイバルス側から使者が来てこう口上したのだという 「私(バイバルス)はパルワーナの要請で(ルームまで)来た。何故なら私が来たらばルームの王国を私に委ねると約束をしていたからだ。

2017-11-10 02:15:06
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すると、私がそこ(ルーム)に来た時、彼は逃げてしまったのだ」と。 これが決め手となったようで、ヒジュラ暦676年ラビーウ第1月朔日(1277年8月10日)、パルワーナはこのアラタグで「ヤサに至らしめられて」処刑された。

2017-11-10 02:24:38
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その後、ルーム地方の復興と秩序快復はシャムスッディーン・ジュヴァイニーに任されたそうだが、このジュヴァイニー兄はルーム地方にタムガ税を導入した事が述べられている。復興資金とも取れそうだが、懲罰的な賦課とも見て取れる。

2017-11-10 02:30:00
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こうして、諸王コンクルタイのルーム地方入部から宰相ジュヴァイニー兄の復興事業、(スベエテイの親戚のキュケ・イルゲイの子)ハルカスンらのルーム地方での叛乱・盗賊の鎮圧もあって一先ずルーム地方での騒擾は終息した。これがトダウン戦死前後の一連の出来事になる。

2017-11-10 02:38:47
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それで、そのアバカにその死を嘆かれたトダウンだが、彼には先述のようにマリク Malik という息子がいた。ただ、彼のその後は詳らかでない。恐らくスンジャク・ノヤンか他の兄弟達の家で養育されたかもしれないが、その子アミール・チューパーンも生立ちが詳らかでない。 twitter.com/mongkeke_tarik…

2017-11-10 02:43:21
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アミール・チューパーンが集史の記述に現れるのはガザン時代になってからだ。1303年のガザンよる三度目のシリア遠征の時、ガザンの筆頭部将だったマングト部族出身のクトルグ・シャー・ノヤンの許で活動していた事が出て来る。

2017-11-10 03:12:40
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クトルグ・シャー・ノヤンは、スルタン・ナースイル(位1299-1309:第二次即位)およびカイロのアッバース朝カリフ・ムスタクフィー(位1302-40)率いるマムルーク朝軍と、ダマスクス南郊外のキスワ高地で会戦して敗退してしまうのだが、そこでクトルグシャーはチューパーンに助けられている。

2017-11-10 03:22:44
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クトルグシャー率いるイルハン朝軍は5月初旬には北イラクのイルビル付近まで撤退したが、この時ガザンはタブリーズ〜アルダビール方面にいたそうで、6月初頭のガザンへの戦果報告はチューパーンが行っている。そこでガザンがチューパーンの活躍を称讃しているが、

2017-11-10 03:31:12
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チューパーンは軍馬を失った騎兵達をとりまとめ、殿軍としてバグダード街道沿いの将兵の収容に努めたらしい。これで敗退した将兵を勇気づけたのだという。ともかく遠征軍司令クトルグシャー等はガザンの激怒を買い、一時処刑にもなりかけたが死一等を免ぜられ杖刑を受けたらしい

2017-11-10 03:37:46