【神聖ローマ帝国】はちゃんと【神聖でローマで帝国】だった? ほか、「カール大帝とフランク王国」など歴史談話
- tomoshibi6o6o
- 35843
- 88
- 9
- 33
【プロローグ】
①フリードリヒ1世(赤髭帝)の時代まで、神聖ローマ帝国は強い国だった?
神聖ローマ帝国→ドイツ帝国への認識の転換点について
英雄だったからこそ、その死を悼んで「帝国(ドイツ)の危機には蘇り、救済する」という伝説になったんでしょうね。 カール大帝の列聖など、皇帝権威の強化に奔走したひとりだと思っています。 twitter.com/mmmnvivi/statu…
2017-12-25 21:40:19フリードリヒ一世バルバロッサはよく考えると紛れもなくあの時代の英雄の一人なのだが、レニャーノの敗戦と最後(十字軍の途中で溺死)しか一般的に知られてないので残念な王様にみたいにされてる風潮。馬鹿の一つ覚えみたいなネタ化は正直ウザいよね
2017-12-25 02:55:56そういったフリードリヒ赤髭帝の言動を見ていると、カール大帝の継承者を自負していたようなところがあります(個人的な所感) 実際、彼の死後に孫フリードリヒ2世は聖界諸侯・俗界諸侯に対し大幅な権利を認めるので、フリードリヒ赤髭帝の時代が神聖ローマ帝国のまとまってた最後の時代と言えるのかも。
2017-12-25 21:43:43(世界帝国を目指していた)神聖ローマ帝国が(一地方のみの)ドイツ帝国となったのは転換期がいつなのか、時期は諸説ありますが、やはり皇帝フリードリヒ3世(在位1440~93)が「ドイツ国民と神聖ローマ帝国」、すなわち国号にドイツを書き加えた時でしょうか。
2017-12-25 21:57:47百年戦争が終わって英仏が明確に分かれ、レコンキスタも最終段階に入り、ローマ帝国の正当な継承者であるビザンツ帝国が滅亡した時期だ。その時期にドイツという自覚が明瞭化したということかな。>RT
2017-12-25 22:15:17フリードリヒ3世の曾孫カール5世の退位の際には、「弟フェルディナンドに《ドイツ帝国》を譲る」との文言が出ているので、この頃には神聖ローマ帝国は実質ドイツ帝国となっていたのでしょう。 次のフェルディナンド1世はちょくちょくドイツ皇帝として紹介されている資料をみます。
2017-12-25 21:59:36もちろん、フェルディナンド1世は正式には「神聖ローマ皇帝」であり、ドイツ皇帝という帝座があった訳ではない。 そして更に言えば「ドイツ王」という称号はあったが、これは未戴冠の神聖ローマ皇帝を指すものであり、イコールでドイツ王国があった訳ではない。
2017-12-25 22:02:00やはり神聖ローマ帝国の、ドイツ王選出(ローマ王指名)→皇帝戴冠という手順は、ちょっと概念としては中々難しい(そこが面白いんだけども)
2017-11-25 04:13:51よく神聖ローマ帝国を指して「神聖でもなければローマでもなく、ましてや帝国ですらない」という有名な文言を引用してる人がいますが… それは三十年戦争後の、新教徒が権利を持ちローマで戴冠することもなくなった、分裂した帝国のことであって→
2017-12-25 22:35:49→フリードリヒ赤髭帝や、その前のサリエリ朝の諸皇帝に対してはそう言えないと思うんですよ。 彼らの時代、まだ神聖ローマ帝国はまだまとまりがあり、強国でした。 フリードリヒ赤髭帝は十字軍を率いようとしてましたし、ハインリヒ獅子公の追放に見られるように彼の時代まで皇帝の権力は強かった。
2017-12-25 22:38:38何が言いたいかって、神聖ローマ帝国と見て、無闇に「ああ、あの神聖でもなければローマでもなく、ましてや帝国ですらない国ね!」というのは何も考えずに条件反射してる証拠です。実態がわかって言ってんのか。
2017-12-25 22:40:06ローマを領有していないから否定するのではなく、諸侯によって帝国が分裂し皇帝権威が失われており対外勢力にも弱い、かつての大ローマ帝国の面影もへったくれもないというならわかる(ヴォルテールにケンカ売ってる発言)
2017-04-08 22:17:49>rt 丸っと同意せざるを得ない。ザクセン朝、そしてザーリア朝の途中まではまさに西欧を代表する帝国って感じだし、叙任権闘争が始まったあとも強い。バルバロッサが即位した頃は危機的な状況になり掛けていたが、一応にせよ立て直して再び最強国に近いところまで持っていったのは確か。
2017-12-25 22:44:02ハインリヒ六世が早世しなければ、名実ともに独伊に跨がる帝国が表れてた可能性すらある。どうしようもなくなるのはせめて大空位時代からでしょう。つまりフリ2が悪いんだ(ドイツ根本主義感)
2017-12-25 22:46:17「叙任権闘争」で、よく一般には皇帝ハインリヒ4世が教皇に破門された、よくいう「カノッサの屈辱」で皇帝側の敗北というイメージが強い。 だけどその後ハインリヒ4世は体勢を立て直しているし、ローマを包囲して別の教皇を立てている。
2017-12-25 22:51:55あくまでネタでもマジでもよく取り上げられる「カノッサの屈辱」は「叙任権闘争」のやりとりを表すエピソードであって、これによって皇帝側の敗北ではない、ということも伝えていきたい。
2017-12-25 22:53:29ウェストファリア条約も昨今の研究でHREの死亡証明書ではないことが史実になりつつあるし17世紀以降のHREに関してのイメージも刷新するひつようがあると
2017-12-25 22:42:01ルドルフ1世の皇帝(ドイツ王選出)も、使いやすい駒として選ばれたのではなくフランス王・ボヘミア王に対抗しうる実力者という意味だったみたいですからねぇ。 フリードリヒ3世の評価も変わってますし、西欧史も歴史評価が変わっていきます。
2017-12-25 22:46:06②「フランク王国」なのに「皇帝」が治める?
カールの即位とか神聖ローマ皇帝という存在、そして中世の「キリスト教世界」という概念もこういった前提の元に捉えないと、どういう意義を持っていたのかよくわからないように思います。
2017-12-26 13:47:55少しまとめると、カールが800年に皇帝になったときはビザンツに女帝エイレーネが現れていたので、西方世界はその正統性を否定してフランク王をローマ皇帝にしたのでした。801年にカールが名乗った称号は以下のようなものです。
2017-12-26 18:35:14カール、神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治する皇帝、神の慈悲によるフランク人の王にしてランゴバルド人の王。 これによって西方世界に数百年ぶりに「ローマ帝国」を名乗る政府が現れるわけです。
2017-12-26 18:35:36またビザンツはカールのことを「フランク人の皇帝 Imperator Francorum」とも呼んでいます。つまりローマの皇帝としては認めないが(ローマ帝国中の)フランク人の領域を統治する皇帝とは認めてやる、ってところでしょうか。ある意味「フランク皇帝」とは他称として存在してたんですね。
2017-12-26 18:44:20いっかい、帝冠(皇帝)と国家を切り離してみるといいかも カール大帝から後、西ローマ皇帝として戴冠した者をフランク=ローマ皇帝というけど 彼らの支配していた領土は「帝国」ではなく「王国」だった 帝国と呼べたのはカール大帝と息子のルイ敬虔帝で、その次の代で帝国ば分裂する
2017-12-26 17:50:00