お城EXPO 12/23-24

1
日光81 @nikko81_fsi

中納言と禄高五十万石以上が暗黙の了解で、五重天守を建てる条件だったかも…と条件のない大名がなんとか五重天守に近づけようと、でかい天守なのに、屋根をひとつ抜いて四重化したのが小倉城天守を建てた細川忠興だったのでは…と。 #お城EXPO

2017-12-23 16:55:38
日光81 @nikko81_fsi

これをパクったのが津山城天守。隠れて森忠政がパクろうとして忠興にみつかり、正式に図面をもらって建てたくらい構造が似ていて、津山城は四層目を瓦葺きではない板葺きにし、五重天守としてカウントされないようにした? #お城EXPO

2017-12-23 16:58:37
日光81 @nikko81_fsi

福山城天守も同じように四層目をこけら葺にしたのかもしれないと。いわゆる南蛮造り(唐造り)はそーゆー意図と関係あるのかな?。#お城EXPO

2017-12-23 17:00:43
日光81 @nikko81_fsi

近江鎌刃城の大櫓が穴蔵構造の始まりではないか?と。安土から後の天守にも受け継がれたよう。天守の重量の負荷分散に役立つ。。#お城EXPO

2017-12-23 17:04:49
日光81 @nikko81_fsi

天守台石垣にはある程度の負荷は必要。熊本城の復元櫓の石垣が崩れてしまったのは、負荷をかけてはいけない、としたのがよくなかったのかもしれない、と。穴蔵は入り口ではなく土蔵にされることが多いが、天守の入り口は別にあるようす。。#お城EXPO

2017-12-23 17:09:33
日光81 @nikko81_fsi

伊予松山城天守、上の階の床ではない天井がある御殿様式や穴蔵から上らない意味で(今の階段は明治以後)、古い時代の天守の様式を受け継ぐ。岡山城、熊本城、彦根城も穴蔵から本来入らず。江戸城、名古屋城の頃から穴蔵から入るように変わった?。#お城EXPO

2017-12-23 17:13:16
日光81 @nikko81_fsi

姫路城天守の階と窓の『ズレ』。出窓なり破風なりなんなり作らないと屋根裏ができてしまう。岡山城も同様。望楼型では起こってしまうのを層塔型ではシンメトリーな構造を目指し、修正している。ただ意匠として望楼型が好きに思えるトコは、アシンメトリーな構造なんだよなぁ。。。#お城EXPO

2017-12-23 17:24:22
日光81 @nikko81_fsi

それでも左右対称にしようとして…どうしても合わないとこがでてくる…姫路城天守の一層二層の出格子の意味(窓の位置を規則的に配置できなかった)、面白い。#お城EXPO

2017-12-23 17:27:33
日光81 @nikko81_fsi

名古屋城の非対称性は以前にも、三浦先生から伺ったなぁ。天守の発達と関連させて考えると楽しいな。 #お城EXPO

2017-12-23 17:31:43
日光81 @nikko81_fsi

わたしの関心にジャストミート、「武田氏の領国拡大と城郭」まもなく。 pic.twitter.com/lI4hQPcjws

2017-12-24 12:31:16
拡大
日光81 @nikko81_fsi

「城を攻める 城を守る」はじまってます! pic.twitter.com/WmvtnuODvw

2017-12-24 14:07:03
拡大
日光81 @nikko81_fsi

江戸時代半ばまで北条五代では氏政が一番評判高いんだってね?てことで、黒田先生の「北条氏政」が出るそうです。 #お城EXPO

2017-12-24 16:24:59
日光81 @nikko81_fsi

田中吉政が東軍についた結果与えられた領国だったとしたら、ある意味豊臣秩序を家康が乗り越えようとする現れとも見れますか… twitter.com/pooh_zo24/stat…

2017-12-25 23:30:04
まるこう @pooh_zo24

@nikko81_fsi 三浦先生の五重天守制限話は、実は豊臣秩序の中での不文律だったということなのではないでしょうか? 田中吉政の柳川入りは関ケ原後、しかもそれは東軍についた結果得た領国ですし…。五重天守もその際あげられたものですよね。 豊臣秩序の弛緩の一例と柳川城五重天守の建築は考えられませんかね?

2017-12-25 22:50:59
日光81 @nikko81_fsi

いま手元に資料がないのだが、平山先生の武田城郭のお話を反芻。諏訪はともかく佐久、筑摩と戦線の拡大に伴い、拠点城郭の移動が興味深い。いずれも降伏・制圧国衆の山城を接収した後、新規か増築かはあるが、比較的平地の城を拠点とする傾向があるように感じたひととき。#お城EXPO

2017-12-25 23:41:24
日光81 @nikko81_fsi

小県や川中島をみてると、敵方を制圧すると一旦山城を接収するのだけど、やがてそれを廃して政庁を兼ねうる平地の城に替えていく気がしていて、塩田城に対する岡城(岡村城)、雨巌城に対する海津城・長沼城とか。諏訪茶臼山高島城や深志城がよく今ではわからなくなってるのが惜しい。#お城EXPO

2017-12-25 23:46:13
日光81 @nikko81_fsi

佐久は内山城に対して…幕末のではない岩村田城がどこにあったかだよな。少なくとも岩村田大井氏の本拠はちょっと…岩尾城は…海津城に対する長沼城や牧之島城のような衛星のような中核となる城かも知れない。#お城EXPO

2017-12-25 23:50:23
日光81 @nikko81_fsi

伊那も気になるところ。高遠城は制圧した高遠諏訪氏の持城だから、制圧した山城に当たるわけで、同じロジックで考えると武田の新たな拠点としては、伊那大島城が相当するのかもしれない…が、諏訪勝頼は高遠城に入ってんだよね…前任の秋山虎繁は大島に入ってるはずなんだけど。#お城EXPO

2017-12-25 23:58:13
日光81 @nikko81_fsi

諏訪でも大門街道の付け根の朝倉山城と湯川城、小県の塩田城と岡村城、川中島の雨巌城と海津城の関係を考えると、後を政庁を兼ねる拠点となる平地の城には丸馬出がセットになるんじゃないか?と想像。佐久だと岩尾城が相当、伊那は大島城。となると、筑摩は…深志城、諏訪は茶臼山高島城?#お城EXPO

2017-12-26 00:02:14
日光81 @nikko81_fsi

筑摩であの大岡城も上がってたんだよな…海津城に対する長沼城みたいな位置づけかな…衛星みたいに取り巻く重要拠点。制圧した山城に代わる川際もしくは台地際の平地に新たに築城するパターンが信玄時代の武田の城にあり、その平地の城には丸馬出が定番…みたいな妄想。#お城EXPO

2017-12-26 00:07:39
日光81 @nikko81_fsi

この信玄時代の戦線拡大、城郭の使われ方と丸馬出を地域別に時系列に整理するのと山本菅助の武田信玄仕官の時期、甲陽軍鑑の、勘助流とする丸馬出の記述。割りと勘助が本格的に仕官してから丸馬出が武田に採用されたといえたらおもしろいな。#お城EXPO

2017-12-26 00:15:54