龍との戦いに敗れ、ほうほうのていで逃げ出して、どれくらい経ったのか。 地獄の猟犬団はぼろぼろだった。まず皆をひっぱってきたまとめ役を失った。白金紋章の冒険者で、嗅鼻にとっては幼馴染で、頼りになる頭領で、片思いの相手でもあったヒロが、敵の呪文で塩の柱になってしまった。
2018-01-15 22:45:58さらにヒロとふしぎな絆で結ばれた異国の女、知恵深きヤマダサンは、龍のとりまきである不死身の虫に全身を刺され、血を吸われ、毒をそそがれて意識が戻らなかった。団は壊滅一歩手前。 どうにか逃げ出せたのは、嗅鼻が飼いならして連れ回していた、地獄の猟犬という魔物の助けがあったからだった。
2018-01-15 22:48:07だがたのみの地獄の猟犬も、二頭の成獣のうち、片方が怪我をし、三匹いた幼獣のうち一頭が死んだ。龍にやられたのではない。 遁走する途中ででくわした、別の魔物、“痩せた男”の群に殺されたのだ。 仔犬が宙でひねり殺され、親犬が怒りに吠え猛るのを、嗅鼻は必死に制して逃げた。
2018-01-15 22:50:07痩せた男は手強い。何もない空中を伸ばしたり縮めたりして敵の体を飴細工のようにねじ切る。 もちろん、目にもとまらぬ早業で剣をふるうヒロさえいれば、何十体いようと返り討ちにしただろうが。嗅鼻氏には無理だった。
2018-01-15 22:52:02痩せた男をなんとか撒くと、一息つけた。 一番恐れていた龍の方は、もう追ってこないようだった。 因縁の敵であるヒロを激闘の末しとめ、気は済んだというのか、あるいは不死身の体でも、鋭い刃でさんざん切り刻まれれば回復まで時間を要するのか。
2018-01-15 22:56:08ぼろぼろになって進み、迷宮の魔物の一種、猪熊の巣穴を見つけ、もう住んでいるものがいないのを確かめもぐりこんだ。 地獄の猟犬におぶわせていたヤマダサンを横たえ、介抱しようとした。 虫に血を吸われたところがじくじくと膿んでいた。毒のせいだろう。 「草採…使える薬草がねえか探せ」
2018-01-15 22:58:22草採は、地獄の猟犬団のもう一人の生き残り。入ったばかりで、まだ子供だが女みたいな顔のわりに根性があり、すばしっこい。命令するとすぐ出ていき、期待していたよりもずっと早く望みのありそうな薬草を集めてきた。 「…お前がいてよかったぜ」
2018-01-15 22:59:56ヤマダサンの手当をしようとして、乳房の大きさに目がいく。 ごくりと喉が鳴る。視線を青ざめた顔に移す。ヒロに似ている。昔孤児だったころ僧院で食事とひきかえに拝まされた女神像にも。 黄の肌に黒い髪、今は閉じているが黒い細目。彫りが浅く幼げな顔。西の草原部族と近いが妙に浮世離れしている。
2018-01-15 23:03:51嗅鼻氏はまぶたをきつく閉ざした。見捨てて逃げたヒロのこと、救えなかった仔犬のこと、さらにもっとずっと前の嫌な記憶がよみがえる。 僧院の炊き出しを待つ列、かたことで話しかけてきた、ヒロやヤマダサンによく似た少女、いや少年のまなざし。
2018-01-15 23:05:32「俺は…だめだ…もう」 指を目の前にある柔らかな二つの肉毬に伸ばす。 不思議な洞察を備えた女。あのヒロがいつも頼りにしていた賢者。だが今はただの抱くことのできる体だ。
2018-01-15 23:08:44「兄貴っ…」 うしろから草採がしがみついてくる。 「お、おれ、おれが…あいて、する。兄貴が…したいなら…おれ、したことある。なんかいも。おとうさんが、したいときは、いつも…だから」 急に背筋を寒気が走り抜ける。
2018-01-15 23:10:47過去の情景。あの薄汚い街の片隅。 ”じゃ…もらってっていいね?” 色町の顔役が尋ねる。ヒロやヤマダサンに似た、少女のような少年があざだらけで倒れている。そばに立っている孤児達が皆賛成する。まだ子供だった嗅鼻氏も。一番年下で、いつも仲間の顔色をうかがってた。
2018-01-15 23:15:01すぐに現実に戻る。今いるのは街の路上じゃない。迷宮下層の、打ち捨てられた猪熊の巣穴だ。 「兄貴…おれが…おれが、だから、ヤマダサンは…」 必死になって弟分の少年が訴えている。草採。いつもおとなしいくせに、いざとなると芯が強い。 「分かってる…分かってるよ…わりい…」
2018-01-15 23:17:35「ヤマダサンの手当てはお前に頼む。薬草の技には長けてんだろ…」 「え、でも」 「やれ。お前の方がうまくやれる…俺は犬達のようすを見てくる…」
2018-01-15 23:18:36洞穴を出ると、入り口のすぐそばの草むらに、地獄の猟犬が二頭寝そべっている。見張りのつもりか。ただ、びっこをひいていた雌の後ろ足を、雄が舐めていた。それだけで治るはずもないが、魔物の命は強い。人間なら死ぬような怪我も癒える。とどめさえさされなければ。
2018-01-15 23:20:52生き残った子犬二匹は、親の目の届く範囲で遊んでいたが、時折いなくなった三匹目を探してとまどったようすを見せる。嗅鼻はつらくなって視線をそらした。 「ヒロ…お前の兄貴は…俺達が…色町に売ったんだ…俺は…ずっと…知ってた…あいつは…」 誰にも聞こえないところで吐き出す。
2018-01-15 23:22:48ヒロとは子供のころからの付き合いだった。 どこからともなくあらわれた女神の申し子みたいだったが、実は家族がいた。 嗅鼻氏やその仲間が属していた孤児の群「地獄の猟犬団」に入る前は、兄と一緒に、街をさまよっていたらしい。
2018-01-15 23:26:14その兄は 「やさしくて、かっこよくて、まじめ」 だとヒロは言っていた。 実は会ったことがあった。優しいかったのは確かだ。かっこいいというよりはおとなしい印象だった。子供だった嗅鼻氏が、僧院の炊き出しの列に並んでいたとき、すぐ前にいた。妹のために食事をもらおうとしていたのだと思う。
2018-01-15 23:29:04嗅鼻氏よりかなり背が高く、女神像によくにた顔だちで、はじめ女の子かと思ってどきどきした。僧院の連中に好かれるようなものしずかで、賢そうなったずまいで、実際炊き出しの食事もたっぷりもらっていた。逆に嗅鼻氏みたいなのはちょっぴりしかくれない。
2018-01-15 23:31:12最初の胸のときめきは消え、自分の分をこいつがとったのかと思うと腹が立った。例の女神への感謝の祈りもそこそこに仲間のもとへ戻ろうとしたとき、向こうから、かたことで話しかけてきた。 「こうかん、しよう」 たっぷり入った食事の椀と、ちょっぴりの椀を。どういう魂胆。
2018-01-15 23:33:30でもまなざしを見てすぐに分かった。ヒロの兄は、嗅鼻氏をあわれんだのだ。同じような施しを受ける身分のくせに。見ず知らずのほかの孤児を。 嗅鼻氏はまだ幼く、頭のめぐりはそう良い方ではなかったが、憐れみだの、感謝だのに関しては勘が働いた。
2018-01-15 23:35:35「るせえええ!!」 椀の中身をぶっかけてつかみかかった。すぐに地獄の猟犬団のほかの仲間も集まってきて加勢した。ヒロの兄は身を庇うだけでろくに抗わなかった。 そうして袋叩きにしているうちに、色町の顔役、かつて孤児の群から出た地回りの大物が来て、ヒロの兄をどこかへ連れて行った。
2018-01-15 23:37:16「俺は…ヒロ…あいつを…ただ…あんな…お前のことも…さっきはヤマダサンのことまで…俺は…」 嗅鼻氏はひとりで呟き続ける。ずっと胸の奥にためこんでいた。もう聞く相手もいない今だからこそ、口をついて出てきた。 「すまねえ…」
2018-01-15 23:38:57「ごめんなさい…私達粉っぽくて」 「でもこれがないと…あの"痩せた男"とかに襲われちゃうから…」 しょんぼりしたようすで妖精の姫達が話しかける。 「いや粉っぽいのは…まあいい」 嗅鼻氏は、水煙管の吸い口を外してもとの場所に戻すと、どんぐりの杯をとって蜜酒をあおった。 「うぇーい!」
2018-01-15 23:42:19