カルト化する心理学と心理学批判

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立石諒 @Ryo612_swim

過去を暗いものにするか、明るいものにするかは未来が決める。一生胸に刻んで生きていこうと思った。#金スマ

2018-03-30 23:04:59

**以下、無限に方法化・手段化・道具化する目的また目的はあり得ないとしていく無限後退について。人を手段として利用するのがあるが、あれは目的の具化に類する現象。

cf.スピノザ『人間知性改善論』
→観念の観念の観念…
→真理の標識**

安室行正 @mlqcx

@mlqct まず「直観的」を明らめると、それは非道具的ということと思ってる。。例えば眼鏡掛けて絵画を鑑賞するとき、眼鏡は道具的、絵画は非道具的=直観的。眼鏡は観る(直観する)ためのもの=道具で、観る対象ではない。無限もおそらく同様に、道具的な無限と非道具的(直観的)な無限があると考えてる。

2018-03-28 20:53:54
安室行正 @mlqcx

@mlqct とした上で、道具的無限と非道具的無限に僕は実無限とか可能無限とかいう名前をつけて、数学とつながりたかったんだけど失敗したかも。 形式論理学や数学では、道具的、非道具的みたいな分別をつけるような論理ってあるかな?

2018-03-28 20:58:32
安室行正 @mlqcx

「嘘をつくのは悪いことだから、目の前の人をバカと思ったなら、ちゃんとその人にバカと言おう」みたいな非合理がカントの定言命令と解されがちだが、そもそも「嘘をつくのは悪いことだから」の一節が既に仮言してしまっているから、これは定言でも何でもなく仮言命令。原理的に定言命令は言明不可能。

2018-03-28 21:36:22
安室行正 @mlqcx

@mlqct そもそもないのかぁ。動機の説明は僕の手には負えないんだけど、漠然と思うに、神と人各々の視点を考えるといいかも。道具非道具の意味合いは先述の通りだけど、これには神の視点が前提される。眼鏡を例にとったが、眼鏡は眼鏡として直観した瞬間道具でなくなる。眼鏡は絵画のために道具的たりうる。

2018-03-28 21:47:24
安室行正 @mlqcx

@mlqct 眼鏡を道具的として直観した瞬間、それは非道具的になってしまう。絵画を頭越しにしてしまっているわけだから。ここで道具の言明不可能性が際立つ。量子論の観測不可能性のような。

2018-03-28 21:50:11
安室行正 @mlqcx

@mlqct 人には道具を道具と言明できない不可避的必然的な本性がある。一方神の視点を借りることで、道具非道具の分別がつく。このギャップが気持ち悪くて、みんな哲学するんだと思ってる。長くなってごめんね(^-^)/

2018-03-28 21:52:47
安室行正 @mlqcx

@mlqct 反射より無限後退かも。道具は方法とも言えて、それは直視した瞬間、文字通り(方法に対する)目的になってしまうんだった。いつまでも鉄を鍛える用に具われず、ハンマーのためには木の棒が必要、木の棒には国産杉が、国産杉には水と陽光が…となかなか運動させないゼノンのパラドクス。

2018-03-29 13:20:27
安室行正 @mlqcx

@mlqct なるほど。ちなみにハイデガーは、無限(=世界)の内にあること=世界内存在に、自覚(形式的)無自覚(非形式的)の分別をつけることで色々語れる。数学や分析哲学ではこの無自覚の面をどう考えてる?可能無限、実無限、可算非可算無限でそれは考えられそう?

2018-03-30 23:52:05
安室行正 @mlqcx

@mlqct 世界内存在(無限の内に在ること)について補説すると、例えば疑心暗鬼、これは無際限に疑って収拾つかなくなり不安になることだけど、これは世界内存在に無自覚。一方懐疑は無際限に続けようと思えば続けられると分かっていながら、コギト命題を導出するために敢えてする「方法的」懐疑は自覚的。

2018-03-31 00:07:41
Kant @Kantbot

意図する行為の結果や対象には傾向を持つ事はできるが尊敬を致す事はできない。

2018-03-28 18:15:09