勝海舟の生涯をまとめてみた

幕末期、江戸無血開城や徳川家の存続に奔走した幕臣・勝海舟の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

海舟が不在の間の海軍は木村が安房館山藩主・稲葉正巳の下で改革案を練り上げ、軍艦総数を370隻以上、乗組員総数6万人を集め全国6ヶ所に軍艦を配置する一大構想を上げます。 しかし海舟は500年かかっても無理だと反対。地方からの人材登用・育成論を語り、木村の案を事実上廃棄へ追い込みます。 pic.twitter.com/zHcAXnC8Eo

2018-02-05 23:37:37
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海舟は反対の根拠は諸侯に費用だけを出させ、幕府のみ軍事力強化に走る構想が公議政体論と合わず、諸侯と幕府が協力するだけでなく、 海軍も互いに手を取り合い強化すべき、とする小楠の意見を参考にして人材登用論を発表したのです。

2018-02-05 23:37:38
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一方、14代将軍徳川家茂の上洛が取り沙汰されると、費用節約の観点から海路上洛を書いた建白書を一翁を通して提出しますが却下されてしまいます。 代わりに手付金5000ドルでイギリス船ジンキーを試乗して気に入った海舟は、15万ドルで購入したジンキーを順動丸と改名。 pic.twitter.com/MRYOblyyVN

2018-02-09 22:27:29
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上洛用に運用しますが、1863年(文久2年)1月4日 一翁が左遷され、後に罷免。1863年(文久3年)2月には小楠も刺客に襲われた事件で京都へ行けなくなります。 同志2人を失う痛手を被った海舟は、幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負い、1月22日に老中格・小笠原長行を乗せて品川を出発します。 pic.twitter.com/5IJBA28fvH

2018-02-09 22:27:29
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1月29日に大坂へ到着し滞在、長行に兵庫で海軍操練所建造を提案しつつ海岸線調査を行い、年を越した1863年(文久3年)3月2日に兵庫を出航、5日に品川へ戻りました。 一翁の罷免ですが、一翁が朝廷からの攘夷催促に反対し、政権返上を口にしたのが慶喜に嫌われた為とされています。

2018-02-09 22:27:30
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その後、将軍の海路上洛は陸路上洛に変更され、江戸を出発した家茂の後を追う形で海舟は順動丸で海路上洛し、大坂で投錨して先回りします。 やがて京都から大坂へ下った家茂を出迎え、順動丸に乗せて神戸に案内しています。 pic.twitter.com/doKhXBISI6

2018-03-13 19:54:30
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海舟は家茂に神戸は碇が砂に噛みやすく、水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港なので、神戸港を欧米との貿易拠点にしてはどうかと提案もしています。 家茂にこの提案を受け入れさせる一方、海舟は同行していた公家の姉小路公知も抱き込みます。

2018-03-13 19:54:31
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やがて幕府の命令で神戸海軍操練所設立許可が下り、年3000両の援助金も約束、操練所とは別に海舟の私塾も作って良いとお達しも出ました。 操練所に先立って私塾の方が先に始動、薩摩や土佐藩の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしますが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れます。 pic.twitter.com/MwjgZreM0s

2018-03-13 19:54:31
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後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していきますが、それを見越していた海舟は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしています。 その後、姉小路公知が朝廷の説得で幕府からも製鉄所の設立が命じられ、海軍の強化に大きく前進していきます。

2018-03-13 19:54:33
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しかしこの頃政局も動乱が相次ぎ、上洛していた家茂は朝廷に攘夷実行を迫られ、これに反対して政権返上を主張した松平春嶽は無断で京都を離れてしまいます。 そして1863年7月5日(文久3年5月20日)姉小路公知が何者かに暗殺され、海舟は提携相手を2人も失ってしまいました。 pic.twitter.com/zciT56L6og

2018-03-13 19:54:33
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度々幕閣に攘夷を主張しても受け入れられず、戦争のきっかけに考えていた「生麦事件」も幕府が賠償金をイギリスに支払い事態収拾された為、海舟は政治的に不利になっていきました。 海舟は公議政体論の軍事的応用として諸侯との協力を前提にした「一大共有の海局」を掲げ、 pic.twitter.com/YsjwB6qaMu

2018-05-08 17:52:01
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幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指しますが、保守派から睨まれていた上に頼りにしていた松平春嶽も5月8日に政局を放り出して離脱、 海舟は次第に孤立していきます。ところが7月に兵を率いて海路で江戸から大坂へ到着した小笠原長行は率兵上洛を企てます。 pic.twitter.com/A5k2x0u3ES

2018-05-08 17:52:01
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これが一因で7月28日 海舟は朝廷から江戸帰還を許された14代将軍・家茂を順動丸に乗せて海路で江戸へ戻ります。※長行は率兵の責任を取らされ罷免 家茂は朝廷から攘夷を約束させられますが、攘夷が不可能だと知っている海舟にとってはやりづらい状況になっていました。

2018-05-08 17:52:02
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また春嶽が治めていた越前福井藩では政変が起こり、率兵上洛および諸侯を集めた列藩会議召集を主張する横井小楠と対立した一派が9月5日に上洛派を追放。 9月23日に小楠も福井を去り公議政体論実現は難航します。1週間後に起こった八月十八日の政変を報告された海舟は日記にその失望感を書いています。 pic.twitter.com/1B88MkBgoX

2018-05-08 17:52:02
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それでも海舟は9月に老中・酒井忠績と同行して順動丸で再び上洛、政局に嫌気が差していた春嶽に上洛を促し、彼を説得して家茂上洛の下準備を整え12月8日に大坂を出発。 12月13日に江戸へ到着、1864年(元治元年)2月5日から15日にかけて家茂と共に上洛、2月17日に海軍増強策を上奏しています。

2018-05-08 17:52:03
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海舟は幕府の命令で長崎に滞在し、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して前年の長州藩による外国船砲撃への諸国の報復を抑える為に説得に動きます。 しかし上奏は採用されず長州藩への制裁も下関戦争として発生した上、海舟が公議政体論の具体化として期待していた参預会議も pic.twitter.com/8yPpkGHyOU

2018-05-08 17:52:04
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1864年4月14日(元治元年3月9日)一橋慶喜の策動で解体されてしまいます。海舟は6月17日に軍艦奉行に昇格し神戸海軍操練所も設置されますが、政治構想をことごとく潰されて幕府に対して不満を抱いていました。 同年8月12日に佐久間象山が暗殺され、20日には「禁門の変」が発生。 pic.twitter.com/jMIxyxynxE

2018-05-08 17:52:06
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続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなり、海舟の立場も危うくなっていきます。 1864年12月8日(元治元年11月10日)海舟は遂に軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送ります。 pic.twitter.com/X68tRNmD79

2018-05-08 17:52:07
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翌1865年(慶応元年)神戸塾と海軍操練所もに閉鎖され、海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだといわれます。 海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、1864年10月11日(元治元年9月11日)の大坂においてでした。 pic.twitter.com/vMKhJsLc3W

2018-05-08 17:52:08
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西郷はしきりに神戸港開港延期を心配し、それに対する策を勝が語り西郷は海舟を賞賛する書状を大久保利通宛に送っています。 また1865年(慶応元年)には淀川の警備の為に右岸に高浜台場を、左岸に楠葉台場を奉行として完成させています。

2018-05-08 17:52:10
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1866年7月10日(慶応2年5月28日)長州藩と幕府の緊張関係が頂点に達する直前に海舟は軍艦奉行に復帰して大坂へ向かいます。 老中・板倉勝静の命令で海舟は出兵を拒否している薩摩藩と会津藩の対立解消や薩摩藩に出兵させる約束を取り付ける任務を与えられます。 pic.twitter.com/Gvrar8Lino

2018-05-08 17:52:10
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後年、この任務は成功したと海舟は語っていますが、実際は薩摩藩は出兵拒否したままで会津藩と薩摩藩の対立も続いていた為、完全に失敗していたようです。 板倉との関係が気まずくなった海舟は帰府を考えますが、大坂に留まります。1866年8月29日(慶応2年7月20日)14代将軍・家茂が死去すると pic.twitter.com/jH0HE9QxXX

2018-05-08 17:52:11
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宗家と将軍職を継承した徳川慶喜から京都へ召集され、第二次長州征討の停戦交渉を任されます。 1866年10月10日(慶応2年9月2日)海舟は単身宮島(現:広島県廿日市市宮島)大願寺での談判に臨み、長州藩の広沢真臣・井上馨らと交渉しますが、幕府軍の敗色が濃厚だった為、ここでも交渉は難航します。 pic.twitter.com/NdGJ7W6Fvn

2018-05-08 17:52:12
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辛うじて「征長軍撤退の際は追撃しない」という約束を交わしただけに終わり、再交渉の余地を残す事を相手側に仄めかしますが、 慶喜が停戦の勅命引き出しに成功した為にそれも無駄になり、憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまいます。

2018-05-08 17:52:13
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海舟の辞職は却下され軍艦奉行職のままでしたが、以後は事務仕事に勤め、大政奉還まで目立った働きはありませんでした。 1868年(慶応4年/明治元年)戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、対応可能な適任者が居なかった幕府は海舟をを呼び戻します。 pic.twitter.com/0GTUHCaBSD

2018-05-08 17:52:13
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