歴史に関する、おもしろ何でもツイート&リンク集

わたくしも、相変わらず飽きずに必死で色々togetterまとめてるのだけど「ちょっと分量的に短いかな?」みたいなテーマもあります。手元に偶然、そういうのが集中したので、それをひとまとめにしたらいいじゃん、と思いました。個人的趣味がかなり入りますけど、編集可能にしてるんで何かあったら皆さんも追加してください。
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ヤシロ @yashiro_nosuke

@a__k_i その話で 「○○ってゲームと絵柄似てるんですけれど。パクリじゃないと断言できないくらいにはそっくりです。」って、パクリ認定&DM突撃された絵描き様がいるんですよね… でも、絵描き様は契約があるから「それ描いたの自分です」って言えなかったみたいな…

2019-05-27 01:51:18
@rekisikei

今年は本当に色々な方にお世話になりました…来年もよろしくお願いします! そしてセンター世界史で好きな歴史人物が出ますように!!!!! (今年もセンター世界史マンガを描くぞおおおお) pic.twitter.com/BumZgihelx

2018-12-31 18:34:53
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古上織蛍 @koueorihotaru

関ヶ原の戦いの際の増田長盛の挙動が不審とされるが具体的にはどのような事を指すのであろう。①慶長五年七月十二日に家康家臣へ三成・吉継の佐和山決起を知らせた書状のことか?当時の大坂城には徳川方の留守居も含む親家康勢力がいて書状で知らせないとかえって三成への同心を疑われるからだろう。

2019-06-08 06:20:22
古上織蛍 @koueorihotaru

七月十二日の段階では、増田は(後の)「西軍の同志」であることを親家康勢力に気取られてはいけなかった事を注意する必要がある。増田長盛等らの西軍決起直前の動きについては、下記で検討した。↓ koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2016/01/…

2019-06-08 06:23:55
古上織蛍 @koueorihotaru

②慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成に、西軍諸将が長盛と家康と内通している、と取沙汰していると書かれている点が不審なのだろうか?この書状については、偽文書の疑いがある。(というか、原本がないので真文書であるという根拠は全くない。) koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2017/07/…

2019-06-08 06:29:41
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の「徳川埋蔵金」の番組。史料提供はしましたが、出演するつもりはありませんでした。どうせまた興味本位で扱うのだろうなと思っていたからです。そしたら、担当ディレクターが史料や史実でどこまで言えるのかを極めたい、否定論という立場でかまいませんと申し出てくれたので出演した次第です。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

昨夜の「徳川埋蔵金」の番組。史料提供はしましたが、出演するつもりはありませんでした。どうせまた興味本位で扱うのだろうなと思っていたからです。そしたら、担当ディレクターが史料や史実でどこまで言えるのかを極めたい、否定論という立場でかまいませんと申し出てくれたので出演した次第です。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

それで、小栗上野介がなぜ徳川埋蔵金と結びつけられるようになったのか、そのいきさつが当時の史料や証言である程度わかるので、それを紹介することと、小栗の立場で埋蔵金を権田村方面に運ぶことはできないはずだというスタンスでコメントしました。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

それで、小栗上野介がなぜ徳川埋蔵金と結びつけられるようになったのか、そのいきさつが当時の史料や証言である程度わかるので、それを紹介することと、小栗の立場で埋蔵金を権田村方面に運ぶことはできないはずだというスタンスでコメントしました。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

小栗と徳川埋蔵金の話はじつは小栗処刑の直後から噂になっています。しかも、当時の新聞記事あるのです。あまり知られていません。幕府海軍関係者が創刊した「日々新聞」慶応4年(1868)閏6月26日付の記事です。小栗の死からわずか20日後のことです。記事は小栗父子の処刑を述べてから驚くべきことを

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

小栗と徳川埋蔵金の話はじつは小栗処刑の直後から噂になっています。しかも、当時の新聞記事あるのです。あまり知られていません。幕府海軍関係者が創刊した「日々新聞」慶応4年(1868)閏6月26日付の記事です。小栗の死からわずか20日後のことです。記事は小栗父子の処刑を述べてから驚くべきことを

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

書いていました。「其の外の貯金数十万両、并に諸道具類は悉く高崎安中へ御預けに成りたるよし」。なんと小栗が数十万両を蓄蔵していたと書いていたのです。もっとも、ソースは中山道の「板鼻宿を通行したる人の物語」とあり、何と通行人の適当な証言なのですから、最初から眉唾だったわけです。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

書いていました。「其の外の貯金数十万両、并に諸道具類は悉く高崎安中へ御預けに成りたるよし」。なんと小栗が数十万両を蓄蔵していたと書いていたのです。もっとも、ソースは中山道の「板鼻宿を通行したる人の物語」とあり、何と通行人の適当な証言なのですから、最初から眉唾だったわけです。

2019-06-07 10:49:42
桐野作人 @kirinosakujin

さらに、小栗と埋蔵金が結びつけられたのには、江戸から上州権田村へ引き揚げるときの小栗の様子について、旧幕臣の戸川残花(安宅)が自身も関わって、旧幕臣の史料・証言をまとめた『旧幕府』のなかで、これまた小栗が誤解されそうなことを語っています。通行人と比べると、同じ幕臣同士ですから。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

さらに、小栗と埋蔵金が結びつけられたのには、江戸から上州権田村へ引き揚げるときの小栗の様子について、旧幕臣の戸川残花(安宅)が自身も関わって、旧幕臣の史料・証言をまとめた『旧幕府』のなかで、これまた小栗が誤解されそうなことを語っています。通行人と比べると、同じ幕臣同士ですから。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

戸川曰く「(小栗は)采地(権田村)に帰りし時も勘定所不用の千両箱を払い下げ、銃器弾薬を入れ、駄馬に負わせしが、路傍の人は小栗奴は官金の巨額を盗みたりと一時喧伝せし」。小栗は空の千両箱に荷物や武器弾薬を積めて馬に乗せて権田村に帰ったというのです。そりゃ、噂が流れますよね。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

戸川曰く「(小栗は)采地(権田村)に帰りし時も勘定所不用の千両箱を払い下げ、銃器弾薬を入れ、駄馬に負わせしが、路傍の人は小栗奴は官金の巨額を盗みたりと一時喧伝せし」。小栗は空の千両箱に荷物や武器弾薬を積めて馬に乗せて権田村に帰ったというのです。そりゃ、噂が流れますよね。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

これらの通行人や旧幕臣の証言が事実であるなしにかかわらず、小栗の死の直後から、徳川埋蔵金と結びつけられる素地は十分にあり、結果、それが150年間も語り継がれてきたということだと思います。その辺の埋蔵金伝説よりも、徳川埋蔵金伝説は最初からまことしやかなのがおわかりかと思います。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

これらの通行人や旧幕臣の証言が事実であるなしにかかわらず、小栗の死の直後から、徳川埋蔵金と結びつけられる素地は十分にあり、結果、それが150年間も語り継がれてきたということだと思います。その辺の埋蔵金伝説よりも、徳川埋蔵金伝説は最初からまことしやかなのがおわかりかと思います。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

小栗上野介と徳川埋蔵金伝説の主な史料は、日々新聞といい、戸川残花といい、旧幕臣関係者がソースである点が共通しています。これは何を意味するのか? 小栗が新政府軍に対して主戦派だったことは旧幕臣なら知っているはずですが、埋蔵金伝説は旧幕臣が小栗を貶めることになるのではという記も。

2019-06-07 10:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

小栗上野介と徳川埋蔵金伝説の主な史料は、日々新聞といい、戸川残花といい、旧幕臣関係者がソースである点が共通しています。これは何を意味するのか? 小栗が新政府軍に対して主戦派だったことは旧幕臣なら知っているはずですが、埋蔵金伝説は旧幕臣が小栗を貶めることになるのではという記も。

2019-06-07 10:49:43
巫俊(ふしゅん) @fushunia

西方世界で、牛などが牽引する車両の普及が進んだのは、5400年以上前のことで、インドヨーロッパ祖語集団から東方に向かうトカラ語派が分岐したのは、5800年前だから、車両の普及に先駆けてトカラ語派の東方への移動が始まったことになります。

2019-06-10 02:25:33
巫俊(ふしゅん) @fushunia

トカラ語派のインドヨーロッパ語族系集団が中国の新疆に到着したのは、約4000年前で、これは「中国」(新疆をふくむ)の青銅器時代の開始時期にあたります。

2019-06-10 02:27:34
巫俊(ふしゅん) @fushunia

殷の初代湯王の建国時期が3600~3500年前なので、中国で最初に牛を使って車を牽引させた(車を引く牛を「服牛」と呼ぶ)と伝わる殷の高祖の王亥(おうがい)が、伝説上生きていた時期は、系図を湯王から七代遡ると、湯王より150年くらい前の人ってことになるでしょうか。

2019-06-10 02:38:17
巫俊(ふしゅん) @fushunia

ただ王亥らはあくまで伝説上の人物なので、その神話が「牛に牽引させる車を中国に伝来させた人たち」であるインドヨーロッパ語族からの借用であることを考えると、車に家財道具と青銅の武器を載せて、中国の中原を制覇した殷の人たちが共通の祖先として理解していた理想的な人物だということになります

2019-06-10 02:42:15
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