土佐藩士・後藤象二郎の生涯をまとめてみた

幕末の土佐藩士・後藤象二郎の生涯をまとめてみました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1897年(明治30年)8月4日 土佐三伯の1人・後藤象二郎が亡くなりました。享年60歳。後藤象二郎は土佐藩の出身の政治家で、明治維新における 15代将軍・徳川慶喜の大政奉還や自由民権運動末期の大同団結運動などに大きな役割を果した人物です。#後藤象二郎 #明治維新 #幕末 pic.twitter.com/N32dAKOXYe

2018-08-04 11:32:37
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1838年4月13日(天保9年3月19日)後藤象二郎は土佐藩士・後藤正晴の長男として高知城下片町に生まれました。しかし少年期に父を失い、義理の叔父・吉田東洋に預けられ育ちます。 象二郎は東洋が開いた少林塾に学び、また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めました。 pic.twitter.com/NtNvnIKzU4

2018-08-04 11:32:38
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土佐の上士の家に生まれた象二郎は、子供の頃から同じ上士の家に生まれた板垣退助と親しく、近所では有名な悪童でした。 子供のころは板垣が猪之助、象二郎が保弥太という名前だったので、イノスとヤスと呼ばれていました。

2018-08-04 11:32:40
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象二郎は相撲が好きで、藩の役人になった後も鏡川の川原で開かれる相撲大会に参加していました。突き押しの強い相手に負けてしまった時には家の蔵の 梁に四斗俵を網で吊るし、振り子状に揺らして胸で受ける特訓に励み、再戦して勝利するくらい負けず嫌いだったようです。

2018-08-06 23:57:44
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象二郎は14歳から叔父・吉田東洋の下で学び始めました。東洋が開いていた少林塾にはその後の土佐藩を背負って立つ若者が集まっていましたが、 東洋は贔屓はせずに象二郎が優れた人物だと評価していたそうです。1858年(安政5年)東洋の推挙で象二郎は幡多郡(現:高知県幡多郡)奉行に就任。 pic.twitter.com/aNxebbDQYk

2018-08-06 23:57:44
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1860年(万延元年)土佐藩の大坂藩邸建築の為の普請奉行を仰せ付けられます。1861年(文久元年)には御近習目付となりますが、 1862年5月6日(文久2年4月8日)東洋が土佐勤王党に暗殺されると、その任を解かれます。1863年(文久3年)に勉学の為に江戸に出て、開成所で pic.twitter.com/oZbVYVGUGw

2018-08-06 23:57:45
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大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学びました。東洋暗殺後の藩政は一時的に土佐勤王党や、それに加担した上士たちに実権を奪われますが 1863年9月30日(文久3年8月18日)の「八月十八日の政変」以降は逆に勤王党を弾圧します。象二郎はその中心となりました。 pic.twitter.com/UiFcO4bQ20

2018-08-06 23:57:46
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1864年(元治元年)象二郎は藩政に復帰。前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て大目付や参政に就任、公武合体派の急先鋒として活躍します。 1865年7月3日(慶応元年閏5月11日)象二郎は土佐勤王党 盟主・武市半平太を獄に断じ、武市は切腹して果てました。 pic.twitter.com/wy4TpIgG5m

2018-08-06 23:57:47
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その後、象二郎は仕置役となり、東洋が構想していた「開成館事業」の責任者になって1866年(慶応2年)開成館は完成します。 開成館は土佐藩の富国強兵を実現する為の殖産興業の中心施設です。同年 藩命で象二郎は薩摩・長崎へ出張。

2018-08-06 23:57:48
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さらに上海を視察して海外貿易を研究します。坂本龍馬と深く交わるようになったのはこの頃からのようです。 この年の3月に薩摩藩と長州藩は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬・中岡慎太郎らの尽力で和解し、幕府に対抗する勢力として成長しつつありました。 pic.twitter.com/qjsF6gd5bV

2018-08-06 23:57:48
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そうした中で土佐藩は土佐勤王党の弾圧以降、その後の藩の方針を明確に打ち出せていなかったのです。 象二郎は長崎で龍馬との接触を試みます。1867年2月17日(慶応3年1月13日)長崎の清風亭で行われた2人の会談では、元・土佐勤王党党員の龍馬と pic.twitter.com/CiJ9KPUGrP

2018-08-10 01:31:23
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勤王党に叔父の吉田東洋を殺され、勤王党を弾圧した象二郎が過去の事には一切触れず、日本と土佐藩の未来を見据えて語り合い、意気投合します。 しかし、同年6月6日に京都で行われた「四候会議」で幕府と四候(=越前・松平春嶽 宇和島・伊達宗城 薩摩・島津久光 土佐・山内容堂)の意見が対立し pic.twitter.com/iaM1FejEhO

2018-08-10 01:31:24
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会議は決裂しました。ここから薩摩藩は討幕へと動き始めます。土佐は容堂が帰国し、代わりに長崎から象二郎が呼ばれました。 象二郎は龍馬を連れて上京し、薩摩藩との同盟をまとめます。しかし初代・山内一豊の領地加増や15代藩主・容堂の藩主就任過程で pic.twitter.com/LrFMSN6JgD

2018-08-10 01:31:25
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徳川家に対し多大な恩を感じている土佐藩は、討幕は避けられないもののなんとか徳川家を救う事は出来ないかと考えていました。 そこで徳川家が自ら政権を朝廷に返す「大政奉還」を藩論とします。薩長も土佐藩の大政奉還論に賛同しますが

2018-08-10 01:31:27
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薩長の思惑は土佐藩兵を上京させ、倒幕勢力に巻き込む事でした。容堂は「大政奉還」には賛成しますが、 恩義のある徳川家に武力を背景とした「大政奉還」を迫る事には反対します。1867年10月29日(慶応3年10月3日)土佐藩から幕府に出された pic.twitter.com/FygcOgCC3h

2018-08-22 18:58:59
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「大政奉還の建白書」の正書には山内容堂が「松平容堂」と署名し、新政府の具体的な内容が書かれた副書には 土佐藩士の寺村左膳・後藤象二郎・福岡藤次(孝弟)神山左多衛(邦廉)が署名します。 pic.twitter.com/Ln0j2FJKII

2018-08-22 18:59:00
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これを受けて1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍・徳川慶喜は京都・二条城において大政奉還を奏上します。 翌11月10日に朝廷から認められ、265年続いた江戸幕府と650年以上続いた武家政治は終わりました。 pic.twitter.com/KlwlxP5PkQ

2018-08-22 18:59:02
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新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就きますが、1873年(明治6年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野。 その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書署名の1人となります。 pic.twitter.com/jbry57LUHI

2018-08-22 18:59:03
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1874年(明治7年)には実業界に転身して商社「蓬莱社」を設立します。政府から高島炭鉱(現:長崎県長崎市高島)の払い下げを受けて 経営に乗り出しますが2年後には放漫経営で破綻し、福澤諭吉の要請で三菱の岩崎弥太郎に売却しています。 pic.twitter.com/aksF8eqRSb

2018-08-22 18:59:04
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1881年(明治14年)自由党の結成時は板垣に次ぐ副党首格で参加し、大同団結運動を推進しますが、後に政府への協力に転じます。 1883年(明治16年)には福澤の要請で李氏朝鮮政府を援護する為、フランス公使に艦隊を借りて自由党壮士を組織し、朝鮮半島に送り込む計画を立てますがこれも頓挫します。 pic.twitter.com/aUZURXTqGS

2018-08-22 18:59:04
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1887年(明治20年)5月 伯爵を授けられる。進歩党結成にも尽力し、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを歴任。 しかし、1894年(明治27年)5月 商品取引所の開設に纏わる収賄事件の責任をとって大臣を辞任します。 pic.twitter.com/PlTIOeCc87

2018-08-22 18:59:05
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1896年(明治29年)夏頃より心臓病を患って箱根で療養していましたが、翌1897年(明治30年)8月4日薨去。享年60歳。お墓は東京都港区の青山霊園に在ります。 明治以降は不遇の時代も有った様ですが、彼もまた明治維新の立役者の1人と言えるのではないでしょうか。 pic.twitter.com/O1CiJbiDXg

2018-08-22 18:59:06
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