- evenifall_shun
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銘振りも横線の両端のあたり鏨を左端は上方、右端を下方にするのは堀川一門の特色ですが、全体の銘振りは美濃鍛冶やその流れを汲む三品系に近いように感じます。 個人的には在吉は美濃国関の出自ではないかと推測しています。
2018-05-15 20:56:14・山姥切国広など天正17~18年頃の作品に美濃色の影響が強い ↓ 天正17~18年には国広の作品が4振のこされています。 ・脇指 日州住藤原国広(天正17年) ・短刀 信濃守国広 濃州岐阜住大道(天正17頃) ・刀 九州日向住国広作(天正18年) 山姥切 ・日洲住信濃守国広作(天正18年) 足利学校打
2018-05-15 21:14:45大道との合作は関打ちなので美濃色が強いのは当然ですが、他の天正17~18年頃の3振も、それと前後する年代の作品よりも特に地鉄の柾目が強いことや白け映りなどに美濃色が感じられるように思います。
2018-05-15 21:14:45天正17年(1589)頃に在吉が美濃国関で国広と出会って入門したとするならば、在吉は美濃鍛冶の子や一族であって刀鍛冶としての素地をすでに多少は備えていたのかもしれません。
2018-05-15 22:53:20堀川国広には「山姥切国広」(天正18年)の他には長義写しの刀はみられません。 (短刀には長義写しがいくつかのこされています) 7年後の慶長2年に、弟子の阿波守在吉に長義写しの刀がなぜ残されているのかは(語彙力)
2018-05-15 23:09:39「山姥切国広」は堀川国広の最高傑作の呼び声が高いですが、 阿波守在吉の最高傑作は、山姥切国広に作風が通じるこの長義写しの慶長二年紀を有する刀であるといわれています。
2018-05-15 23:09:58映りと重ね
足利における「山姥切国広」の展示では光源がハロゲンであったので私も映りをよく確認することができませんでした。 先日、私が大変にお世話になっている恩師の一人で、昔に「山姥切国広」を実際に手にとってご覧になられた方にお聞きしたところ、映りは無いとのことでした。 twitter.com/tsuruginoya/st…
2018-05-31 19:27:14ふと「山姥切国広」に想いを馳せると。 足利での展示の状況、特にハロゲンが光源となる展示だと映りが飛んでしまってよく確認できませんでした。 ただ、刃文の焼頭に堅めの小さい飛焼がいくつもあったのが印象的でしたので、あの手の刀はやはり映りが少しばかりでも映りがあったのではないかと思います
2017-11-29 23:27:26「山姥切国広」は実際に手にとってみると意外と思っていたよりも重量は軽く感じられるそうです。 本歌の「本作長義」も元来は南北朝時代の大太刀ですので重ねは薄めでしょうか。 「山姥切国広」も本歌に忠実に重ねは薄めにしてあるのかもしれません。 平肉を落としたり樋を掻くのも軽量化になります。
2018-05-31 19:37:03新刀押象集にも「幅広く重ね薄く~~」とあるようです。 新刀押象集(昭和10年刊) 内田疎天・加島勲:共著 pic.twitter.com/c6hVtFTcGB
2018-05-31 21:47:34目釘穴
以前から気になっていた本歌「本作長義」の3つある目釘孔について。 twitter.com/tsuruginoya/st…
2018-05-31 22:06:50本作長義(山姥切長義)の茎 目釘孔が3つ空いています。 堀川国広が切付銘を切った時点では第1・第3目釘孔が空いていたと考えられています。 真ん中の第2目釘孔は銘文に孔がかかっている後世に空けられたもの。 ただ、第2目釘孔が山姥切国広の目釘孔にもっとも位置が似ています。 pic.twitter.com/wRLI750LIY
2017-02-27 21:48:26銘や生ぶ孔が残っていない大磨上無銘の刀、特に南北朝時代の長寸のものを現時点の茎にある目釘孔や刃区から考察するのは難しいことも多いです。 それは刀剣を一度のみでなく、複数回にわたり磨上げ、区送りをしたり、目釘孔を空けたり、孔を拡げたりすることもできる為です。
2018-05-31 22:10:12磨上げた日付を切付銘や金象嵌で残されているものも多くはありません。 また、室町時代には拵や鎺といったものも江戸時代のものとは少し感覚がことなります。 ただし、いくつかの点は経験則から推測することも可能です。
2018-05-31 22:10:13(左)山姥切国広 茎長さ:19.39cm (100) 元幅:3.3cm (右)本作長義 茎長さ:16.7cm (86) 元幅:3.3cm 2振の茎をほぼ同じ比率にして並べてみました。 pic.twitter.com/4V2sjAdqCZ
2018-05-31 22:44:23(左)山姥切国広 赤:山姥切国広の生ぶ孔 (右)本作長義 青:第1目釘孔 天正18年(1590)、国広が切付銘を切った時にはすでに空いていた孔 室町時代中~後期にみられるやや区からの距離が短い孔 緑:第2目釘孔 後世に空けられた孔 通常の江戸時代によくみられる打刀の目釘孔の位置 pic.twitter.com/fS9qdqXinJ
2018-05-31 23:00:07紫:第3目釘孔 天正18年(1590)、国広が切付銘を切った時にはすでに空いていた孔 現在の刃長になる以前に使用した孔 現在の刃長で太刀として使用した孔ではない
2018-05-31 23:00:07天正14年(1586)、長尾顕長が北条氏康から本作長義を贈られた頃に使用していたのは青の第一目釘孔であったと思われます。 区から孔までの距離が室町時代中~後期は短めとなりますので。
2018-05-31 23:05:55目釘孔も位置や大きさが時代によって少しずつ異なります。 また元来が太刀であったのか刀であったのか、拵が打刀拵か太刀拵であったのにかよっても異なります。
2018-05-31 23:22:08例えば、同じ堀川国広の作品でも 初期の古屋打や天正打のものは孔が小さめです。 慶長打になると通常のサイズとなり比較すると大きくなっています。 (左)天正4年(1576) (右)慶長16年(1611) pic.twitter.com/OiSu6AA9P5
2018-05-31 23:35:45(左)刀 山姥切国広 天正18年(1590) 茎長さ:19.39cm (100) (右)太刀 山伏国広 天正12年(1584) 茎長さ:21.8cm (112) 2振の茎をほぼ同じ比率にして並べてみました。 山姥切国広は打刀、山伏国広は太刀として製作されています。 pic.twitter.com/frVD77wfLU
2018-05-31 23:59:11(右)山伏国広 緑:第1目釘孔、後から打刀として使用する為に空けた孔 ただし、通常の打刀の位置よりも区まで短いので古い時代のもの。江戸時代までは下がらず、おそらく遅くとも室町時代後期までには空けられていると思われる。 青:第2目釘孔、生ぶ孔、太刀として使用した孔 pic.twitter.com/PcgkTh0bJE
2018-06-01 00:09:28(左)山姥切国広 赤:山姥切国広の生ぶ孔、通常の打刀の位置 赤:打刀と青:太刀の目釘孔の差はちょうど孔1つ分(約1cm)となる。
2018-06-01 00:09:28松葉国正刀匠 長船長義写し 磨り上げられていない生ぶの大太刀の姿。3尺に近く迫力がありました! 長義の作は多くは棒樋がありますが、南北朝時代の刀工のなかでは例外的で樋先がさがりません。 (通常の南北朝時代の他の刀工は樋先は下がります) pic.twitter.com/LbIvAbtMrk
2018-07-16 21:27:00本作長儀の切先 棒樋の樋先はそれほどに下がっていません。 もっとも備前鍛冶をはじめとする山陽道筋の刀工は、他国や他街道に比べればそれほど棒樋の樋先が下がらないものもみられます。 pic.twitter.com/hCFZU0vXtz
2018-07-16 22:26:38