時計屋シリーズ8~金継の話~

俵屋宗達だったかもしれません。
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帽子男 @alkali_acid

少年が捧げる献身は、年嵩の娘をますます輝かせ、冷えきったたたずまいを温め、柔らかみと穏やかさを与えながら、いっそう華やぎを増させた。 幼心の尽きせぬ愛憐の炎を浴びた夕花は、おとめにあるべき若々しさと瑞々しさを取り戻し、咲き誇り、器として見事に焼き上がりつつあるようだった。

2018-11-10 22:56:19
帽子男 @alkali_acid

それでも一応は、三好と鐘守寺を一つとすべき縁談を根回しし続けたが、やはりと言うべきか、先手を打つように向こうは婚姻を明らかにした。

2018-11-10 22:57:37
帽子男 @alkali_acid

理永が影に日向に伸ばした手をはねのけるような振る舞いだった。 さすがにしばらくは気が荒れたが、落ち着くと塞翁が馬と思いなした。 夕花が懐妊し、黄泉送りに加われなくなったのだ。肇は一人で霧の中に出るようになった。

2018-11-10 23:00:17
帽子男 @alkali_acid

向こうは十代後半になっていたか。すでに騎馬警官隊には三好の婿を救いの天使のごとく崇めるむきもあるとは聞いていた。 さもありなんと納得はできた。血筋のためか霧中に道を誤らぬ少年は、馬を要せず、大型の二輪を乗りこなし、ほっそりした腕に似合わぬ野太刀を二振り負って日夜街を駆けるという。

2018-11-10 23:05:35
帽子男 @alkali_acid

だが、何といってもまだ未熟だった。 街から生じたのではなく、霧のかなたから鐘の音が誘い出した、あの世のものの一柱が、餌食となる赤子を求めて孤児院に這い寄った折、とうとう少年は深傷を負った。

2018-11-10 23:08:28
帽子男 @alkali_acid

騎馬警官隊は街から生じたあの世のものが、二か所をさまよっているのを追っていた。 大物は三好肇がひとりで引き受けたのだ。 肋が折れ、臓腑もつぶれ、腕がひしゃげ、足があらぬ方に曲がった女形の少年は、しかし尚、燃える枝をはやした路面電車ほどもある二股の百足を、独力で八つ裂きにしたとか。

2018-11-10 23:10:54
帽子男 @alkali_acid

理永にとっては待ち望んでいた刻(とき)だった。 三好の婿が電話で呼んだ救急が運び込もうとした先を、市立病院から鐘守寺傘下の知音会病院に変更させ、特別治療室に導き入れた。表向きははあの世のものとなる兆しがあらかじめ読み取れた稀有な患者に、安楽死を与えるべく設えた設備だが。

2018-11-10 23:13:28
帽子男 @alkali_acid

もっと別の目的もあり、息のかかった医師を詰めさせてあった。 むろん、処置には理永も同席した。器を割る練習のつもりもあった。 もっとも控室からあらわれたとき、血まみれの少年が愕然とするのを間近で眺めたのが、悪い気分でなかったとは言えない。

2018-11-10 23:17:06
帽子男 @alkali_acid

「私が分かるかね」 「ぁっ…ぅ…」 「重傷だな。よく意識がある。さすがに分家とはいえ三好だ」 「ぐ…」 「君を救う方法は非常に限られる…しかもまだ研究が端緒についたばかりだ」 「っ…ぁっ…」 「痛いかね。済まないな。我慢して聞いてくれ。十分に理解してから処置を受けて欲しい」

2018-11-10 23:18:33
帽子男 @alkali_acid

鐘守寺の和尚は咳ばらいをした。 「鐘の音にまつわることだ。私は残念ながら聞こえない方だが…鐘の音は、空気の振動ではないことだけは分かってきた。伝わり方も、かなり違う。距離によって減衰すると言えないところもある。しかしいわゆる、本来の意味での音と似た性質もある…例えば…」

2018-11-10 23:20:20
帽子男 @alkali_acid

「鐘の音に似た、逆位相の音を発生させて重ねれば、打ち消すことが可能だ…一方でまた共振によって増幅させることもできる…可能だ」 「あの…ひとに…なにを…」 「鋭いな。君は昔から鋭い。よい番犬だ。だが今は君の話だ。いいかね。三好のものは、鐘の音に人一倍敏感だ」

2018-11-10 23:23:41
帽子男 @alkali_acid

「あの世のものを撃つ君達は、あの世のものに最も近いといえる…だが君達はほかよりはずっと長く人のかたちを保つ強さも併せ持つ…もっとも、分家の君はさほどでもないが」 「ぐ…」 起き上がろうとする少年の、傷ついてなお整った顔立ちをむぞうさに住職は殴りつけた。 「静かに…」

2018-11-10 23:25:30
帽子男 @alkali_acid

「器を割るときはきれいに割りたいのだ。練習であってもね。よいかな。ここには…鐘守寺の本尊を運び込んである。君のためにだよ。あれは…この世にあってあの世の音に共鳴りする…それをさらに…装置によって強める…すると…君の変化は急速に進む」 「ぐぁああ!!!」 「ああ、もう鳴り始めたのか」

2018-11-10 23:28:39
帽子男 @alkali_acid

機械音声が響く。 “和尚様。おさがり下さい。危険です” 「分かったよ。ではね。また後で会おう…その時君は私を見分けることもできないだろうが」

2018-11-10 23:29:54
帽子男 @alkali_acid

夕花によく似た、少女のような少年がもがきのたうつのを眺めているのは、幾分か興がないではなかったが、何かあった時に備え、念のため病院にはいなかったようにふるまえねばならなかったので、無難な証言を得られる場所に急いで移った。

2018-11-10 23:33:07
帽子男 @alkali_acid

どちらにせよ本命の器ではないのだ。

2018-11-10 23:33:30
帽子男 @alkali_acid

しかし後になって考えてみると、しくじりだったかもしれなかった。 少年は姿が変わる前に剛力を発して拘束を引きちぎり、頑丈な鋼の扉を打ち破って霧の中に消えた。

2018-11-10 23:34:46
帽子男 @alkali_acid

ずいぶんと焦りはしたが結局、逃げた番犬は飼い主のもとへ駆け戻り、そこで死んだ。 自殺だったという。実のところは、三好夕花が手ずから討ったのやもしれなかった。子をなしてもなお、あの世のものとなった一族を黄泉送りできる腕はあったはずだ。

2018-11-10 23:37:26
帽子男 @alkali_acid

朽ち果てる前に、若い夫は妻に何かを喋ったのかどうか、かなりの不安があったが、しばらくようすをうかがううち、杞憂であったらしいと分かった。

2018-11-10 23:39:14
帽子男 @alkali_acid

夕花はかつての凍てついたたたずまいに戻ったが、しかし理永に刃を向けてくるそぶりはなかった。

2018-11-10 23:40:11
帽子男 @alkali_acid

焼きあがったあと冷えた器はいっそう艶を増したが、まだ手を出しかねた。 肇を割ったやり方はいかにも粗野で、作りが悪かった。ほとんどまぐれに近いと言えた。大いに工夫が必要だった。

2018-11-10 23:42:15
帽子男 @alkali_acid

夕花は子を産んだ。女の赤ん坊を。 すると氷のかんばせはまた、ほんのわずかに緩み始めた。 失った伴侶の代わりをするように、娘が寡婦をまた温めているのだった。

2018-11-10 23:45:11
帽子男 @alkali_acid

新たな楽しみをもって、三好の家を観察した。 もっとあの一族について知りたいと感じ、読み通したはずの記録や文献をあらためて漁った。いくつかのあいまいな噂についてもあらためて収集した。

2018-11-10 23:46:29
帽子男 @alkali_acid

じっくり調べると、かつて三好の家の馬を預かっていた牧の主、吉岡家から多くの知見が得られた。 例えば、三好の家のものは、あの世のものとなったとき、まず最も慕う人のもとへ向かい、血肉を求めるという伝承などだ。 かかる性向故に、三好のものは一族を逃さず返り討てるという。

2018-11-10 23:49:10
帽子男 @alkali_acid

三好の家がお役目を引き継いできた最大の理由かもしれなかった。 妻が夫を、妹が姉を、弟が兄を、子が親を討つ。一族の続く限り、ほかに塁を及ぼさず、身内の始末をつけ、黄泉送りを続けられる。

2018-11-10 23:51:44