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前の話
本編
霧の都を、人の群が歩いていた。 互いに交わす言葉はなく、意味をなさぬあえぎ声に長く尾を引かせながら、酔いどれのようにふらつき、そろって頭のてっぺんから生えた蔦をうねらせて。 どこかで重く鐘が鳴り響くたび、足並みは乱れ、おののくのか、よろこぶのか、踊るように腕をばたつかせる。
2019-03-03 21:18:25いずこの塔楼から届いた音なのか、時を告ぐるがごとき、あるいは死を知らすがごとき、無数のこだまがゆっくりと遠ざかっていったあと、街路をすっぽりとおおう湿った灰白の帳(とばり)はいっそう濃くなり、陽はさらにかげって、あたかもかりそめの夜が近づいたかのようだった。
2019-03-03 21:24:08だがなお、いびつな舞踏を続けながら進む一行に、何か薄暗い影がかぶさっているのが、ぼんやり見てとれる。 よくよく眺めれば、ひきつれた老若男女ひとりひとりの首を貫く蔦(つた)は、皆ねじれながら上へ伸びて、ひとつにつながっているようだ。 生きた血肉でできた人形を操(く)る傀儡師の元に。
2019-03-03 21:28:35死ねもせず、解き放たれる望みもなく、裏返った嗚咽とともに涙や涎(よだれ)をこぼして両脚をもつれさせ、両腕をふりまわす木偶。 会社員や商店主、主婦といった市井の輩のほか、青い制服をまとい、洋刀や拳銃を掴んだ騎馬警官らしき姿も混じっている。
2019-03-03 21:32:29どこへ向かおうというのか、あるいはたださまようだけか。 だが、やがてゆくてにひとつの影があらわれる。 目つきのきつい、針金のように強(こわ)い髪をした三十代初めほどの男。登山用の服装をし、胸や腰にあれこれと小物をつるしている。 舌打ちが聞こえる。
2019-03-03 21:35:24蔓が新たな獲物を求めて空から落ちかかる。 だが男が携(たずさ)えた奇妙な道具を向けると炎が噴き出し、触手は熱と光に怯えてのたうちながら退く。 「邪魔なんだよ」
2019-03-03 21:37:10蔦(つた)の操り人形と化した市民が押し寄せるのに向かって、男はすばやく円筒を二つ連ねたようなしかけを投げつける。 高地で使う圧縮酸素と、燃料用のガスの缶をテープと金具でつないだらしき手製の細工。だが精巧な雷管が組み合わさっている。
2019-03-03 21:39:54炸裂する。 男は駆け出す。逃げるのではなく、まっすぐ迫りくる一行の中へ。 空から無数の触手が降りてくるが、腹をすかせた野良犬か野良猫じみた敏捷さでかわし、逆に一本を鷲掴む。 怪力で天へと戻っていく蔦にしがみついたまま、火炎放射器を離し、また別の爆弾を取り出す。
2019-03-03 21:42:33霧に隠れていた傀儡師の茸のおばけじみた本体がそばへ迫る。 男は眉一つ動かさず、まるで時計の修理でもしているような精確さで、武器を宙に放ると、落ちてくるより早く、尖端が針のようにとがったハーケンを抜き出し、爆弾についた輪状の金具に通し、柔らかな相手の体表に叩き込む。
2019-03-03 21:48:37ついで掴んでいた蔦を離すと、ハーケンにつながったザイルを繰り出して降下する。 なおも狙ってくる別の蔦を火炎放射器で牽制しながら、地面まで降りると、ちらりと腕時計をあらためる。 再び爆発。 木偶の群を操っていた化生は、ゆらぎ、宙で重さを支えるためのつりあいを失うと
2019-03-03 21:50:56霧の都をかたちづくる煉瓦造りの建物のひとつにぶつかりながら落下し、路上に潰れた。 時計屋はザイルを外しながら、すばやく周囲をあらため、口笛を吹く。 物陰から十代半ばぐらいの少女と、十になるかそこらの少年がおそるおそるあらわれる。
2019-03-03 21:52:22「ほのかぐつち…」 男児が怯えたようにつぶやくのを、年嵩の娘はなだめるようにうなずいてから、殺戮を終えて息ひとつ乱さぬ連れに歩み寄る。 「おじさん…」 「その蔦みたいのに触らないようにな」 時計屋は頭をあげずに注意しながら、倒れた騎馬警官のもとへしゃがみこみ、所持品をあさる。
2019-03-03 21:55:37「古くさい銃だな」 手首を踏みつけ、配給品というには凝った象嵌を施した拳銃をもぎ取り、弾帯もはぎとる。 「都築ちゃん。拳銃使える?」 都築と呼ばれた少女は、青ざめたまま首を横へ振る。とたん、背負った二振りの刀が鍔鳴りをさせた。 「使えない…おじさんは…」 「出張の時マニラで少し」
2019-03-03 21:59:52時計屋、次藤健作は、親友の娘である三好都築の眼差しに気づき、ややきまり悪げに補った。 「むこうは物騒だから」 「…そう、なんだ」 「調子がよくなさそうだな。やっぱり刀は俺が持った方がいいか」 次藤が申し出るのへ、都築は掌を向ける。 「へいきだから」 「分かった。病院まであと少しだ」
2019-03-03 22:03:16「速人(はやと)、だいじょうぶか」 時計屋が呼びかけると、遠巻きにしていた童はぴょんと跳びあがって駆け寄ってくる。 「ほのかぐつち…」 「またそれか。すまないが、この人を頼む」 男は少女を手で示してから、おどおどしている少年に頭を下げる。 「倒れないように見ててくれると助かる」
2019-03-03 22:07:33言葉は通じないようだが、意図は伝わったらしく、速人はいきなりいきおいよく応じた。 「あたし、へいきだって」 むきになる都築の肩を引き寄せて次藤は耳打ちする。 「速人の気がまぎれると思ってな」 男の息吹がうなじにかかって、少女は縮こまる。 「うっ…」 「動けるか?」 「うん…」
2019-03-03 22:11:12◆◆◆◆ 病院の正門には巨大なアリクイに似た屍が伏してバリケードのようになっていた。頭部は爆発物で砕け、毛むくじゃらの巨躯から甘いにおいをただよわせている。近くには死肉漁りらしき翼を持った小さな魑魅があまたうごめいていたが、時計屋達に注意は払わなかった。
2019-03-03 22:16:34駐車場のある裏門は封鎖してあったが、時計屋はキーピックで鍵を外し、ついでにまぬけだましの罠にあった爆弾も解除して入手した。 「雑なしかけだ。横着なやつだな」 ぼそりと告げる次藤に、都築は血の気のない顔色のまま笑う。 「おじさんて」 「ん?」 「ほのかぐつち、かも」
2019-03-03 22:19:44「どういう意味なんだそれ」 「火の神様」 「神様ね」 「ほかの神様を焼き殺しちゃう神様」 「ひどいな」 「ううん…多分…あたしはずっと…」
2019-03-03 22:21:55少女が意識を遠のかせ、つんのめりそうになるのを、少年が飛び出して支える。男は反対側から抱き取り、すばやく連れの脈をとってから溜息をつく。 「速人。ありがとう…都築ちゃん。もうちょっとだ」 「うん…ごめん…ね…おじさん…」 次藤は肩を貸しながら、都築を引きずるようにして歩く。
2019-03-03 22:25:05「まず…医者をつかまえないとな…」 時計屋の腕時計が震える。三好の娘の牙の首飾りも。 速人のお守りも。 鐘の音だ。悲鳴があふれる。 「くそ…」
2019-03-03 22:26:20