12/15 シンポジウム「豊臣大坂城研究の最前線」を拝聴して思うところなど。

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日光81 @nikko81_fsi

メッチャ資料豪華!豊臣大阪城の本丸について学びます。 pic.twitter.com/VIU1r3kppH

2018-12-15 12:42:22
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日光81 @nikko81_fsi

豊臣大阪城研究の最前線。まずは考古学的見地から。大阪市教育庁文化財保護課の市川氏。発掘調査と地下レーダー探査、それの中間にあたるサウンディング試験・ボーリング試験とはどういうことか?のご説明から、ボーリング試験からわかる豊臣期本丸の様子。こんなにされれたんだね。

2018-12-16 23:48:35
日光81 @nikko81_fsi

1959年発見、1984年発見の石垣だけでなく、山里丸の東西でもボーリング調査で石垣が検出されており、東西で高低差があって、真北から枡形を左手に曲がって階段を上るところは同じだけど、西側は低い区画になっていて、東側に上がって本丸下をぐるっと迂回するようになってたのね。

2018-12-16 23:48:59
日光81 @nikko81_fsi

現在の大阪城と比較すると、配水池に丸かぶりではなく、貯水池のわずかに北端が豊臣期天守台にかぶるんだな・・・これ、貯水池ちょっと動かすなり、小さくするなりして、天守台の調査できないかしら・・・・

2018-12-16 23:49:29
日光81 @nikko81_fsi

続いて市大の三田村氏から本丸周辺の地形・地盤状況。これが興味深い。そもそも自然科学的なアプローチから上町台地の形成から話が始まるという壮大さ。ボーリング調査でわかったこととして、本丸の最奥の詰の丸と南側の中ノ段について、どうも自然地形をうまく使っていたのではというのがまたすごい。

2018-12-16 23:50:21
日光81 @nikko81_fsi

徳川期大坂城では失われているが、豊臣期本丸の水堀は西側はずっと壕が食い込んでいて、西側から本丸谷、東側から井戸曲輪谷と呼ばれる自然地形の谷で挟まれ、自然の土橋で狭められた先にある鼻の先のような空間、これをどうも本丸詰めの丸としているそうなんだって。

2018-12-16 23:50:46
日光81 @nikko81_fsi

しかも、自然地層においては本丸南側がやや比高が高く、南の内堀を形成する際に出た砂礫層を詰の丸に盛り土しているらしい、ということまで。豊臣期大坂城の築城でも盛り土されていたんだなぁ。これが徳川期の盛り土になると、砂礫層から先、さらに深い海成粘土層まで抉って盛り土しているそうな。

2018-12-16 23:51:04
日光81 @nikko81_fsi

てなことを考えると、大坂本願寺の姿もおぼろげながら見えてくる。豊臣大坂城築城以前、本丸の現在の桜門から六番櫓あたりが一番比高が高く、中心伽藍はこのあたりと推定されているそう。本願寺看板が六番櫓あたりにあるのはそういうことなのね。

2018-12-16 23:51:20
日光81 @nikko81_fsi

本願寺がいた当時から、豊臣大坂城詰めの丸あたりは鼻のように出っ張って見晴らしのよい場所と記録にあるそうな。とにかく天守をまず上げよと秀吉が命じている書状などはあったと思うけど、作事に入る前の普請だけでも相当な規模の土木工事をやってんだな。それだけに地形をうまく使いこなす必要も?

2018-12-16 23:52:03
日光81 @nikko81_fsi

三番手はちょっと変わって豊臣大坂城の家臣団屋敷配置研究。大坂の陣あたりの研究はあるらしいが、秀吉存命時の屋敷の位置関係の研究はこれまで少なかった模様。文献史学的見地で文書をご紹介。

2018-12-16 23:52:28
日光81 @nikko81_fsi

早くも天正11年には細川忠興(当時長岡忠興)はじめ諸将が屋敷建設に取りかかり、羽柴政権へ臣従する西国諸大名(長曾我部、島津、立花)らが続々と大坂居住を命じられていく。朝鮮出兵期には朝鮮渡海の諸将の妻子を大坂へ留め置く指示が出される。

2018-12-16 23:52:45
日光81 @nikko81_fsi

秀吉最晩年には東国大名は大坂へ、西国大名は伏見へという秀吉の指示。場所としては、石田三成や片桐且元、前田玄以、増田長盛ら側近は、諸記録から二の丸にあったと推定。大名屋敷は天満橋~谷町四丁目あたりと大川を挟んで天満(黒田如水)あたりに集中する一方、今宮に屋敷を構えた伊達政宗の例も。

2018-12-16 23:53:04
日光81 @nikko81_fsi

最後の発表は市大の仁木氏から、建築図面と屏風絵の双方を見比べてみる研究。中井家所蔵の豊臣大坂城本丸図がボーリング調査等の結果をかなりよく合致していて、正確性が高いということからこれを正としての比較。

2018-12-16 23:53:24
日光81 @nikko81_fsi

ポイントは①極楽橋の架かり方②天守の位置③西側に食い込んだ濠④桜門の位置と進入経路。図面類は比較的このポイントを押さえているものの、遷台武鑑や浅野家諸国古城之図ではややデフォルメ。まぁ浅野家諸国古城之図他でもそんな傾向があった気がするぞ。

2018-12-16 23:53:39
日光81 @nikko81_fsi

一方屏風絵はモノによってこの4つのポイントが押さえられている状況に大きな差があって、徳川期大坂城との混同だけでなく、あり得ない位置関係になっている図もあったりして、屏風絵ってやっぱりイメージ先行なんだなぁというのを改めて。どれも興味深い内容でした。

2018-12-16 23:54:19