茂木健一郎さん連続ツイート2011年5月
ギャ(6)ギャグは、一つの反骨精神。正義を押しつけようとしたり、ある決まったものの考え方に凝り固まろうとする人たちに対して、決死の反撃を試みる。満州から命からがら帰ってきた赤塚不二夫さんの胸の中には、そう簡単には枯渇しない虚無ぎりぎりの生命の泉があったのだろう。
2011-05-03 08:12:47ギャ(7)赤塚マンガを代表する「反骨」のキャラクターと言えば、「ニャロメ」。猫だとばかにして抑圧しようという人間たちに対して、「ニャロメ!」と反発する。無謀だとわかっていても、美人を見つければ「結婚しろ、ニャロメ」と迫って、「猫の癖になによ」と蹴られてしまう。
2011-05-03 08:14:01ギャ(8)当時運動していた学生たちが、ニャロメを愛したのは当然のことだったのだろう。赤塚不二夫さんの諧謔精神は、学生運動が振りかざしていた「正義」にも向けられていた。そのことを、学生たちもうすうすはわかっていたのではないか。
2011-05-03 08:15:15ギャ(9)小学生の頃、男の子はギャグ精神が満開で、バカなことをやって喜んでいる。それが、次第に大人しくなって、従順な社会人になっていく。秩序は大切だが、ギャグ精神がゼロになってしまうと、社会を変えるエネルギーも失われる。男の子の魂よ、永遠なれ!
2011-05-03 08:16:52目的(1)人生の問題の一つは、実はゴールがはっきりしていないということだ。大抵の局面において、はっきりとした目的が定まっているわけではない。定まっていたとしても、それは遠かったり、余りにも大きかったりする。
2011-05-04 08:37:01目的(2)ゴールが達成されると、脳内で報酬系が活動し、強化学習が起こる。大切なメカニズムだが、一方で、それほど小刻みに、明確にゴールが定められているケースは少ない。むしろ、ゴールがない状況でどのように学習が進むかが問題である。
2011-05-04 08:37:57目的(3)明確なゴールがないケースが多いからこそ、行為のプロセスそのものが報酬となる「フロー」(チクセントミハイ)が大切になる。ある目標が達成されるから嬉しいのではない。むしろ、目標が明確ではないとしても、その行為に没入する時間そのものが報酬なのである。
2011-05-04 08:39:11目的(4)コンピュータ・ゲームはやっていて楽しいし、私も最近はアングリーバードをトイレに座ってやっている。しかし、ゲームには固有の脆弱性がある。すなわち、目的がはっきりと定められていることだ。
2011-05-04 08:40:06目的(5)ゲームは、あくまでも作られた小世界。実際の生活現場においては、目的は定まらないことも多いし、文脈も単一ではない。無意味だと思われたことが、後になった意味を持ち始めることも多い。
2011-05-04 08:40:52目的(6)ニーチェの舞踏(Tanzen)の概念が生命哲学としてすぐれているのは、それが、目的論から自由であることだ。舞踏においては、目的は自明のことではない。それは、行為する時間そのものに喜びを感じる「フロー」の理論付けであり、フローを哲学的深淵へと接続する。
2011-05-04 08:42:23目的(7)目的意識がはっきりとしすぎている人、あるいは、人生というものは目的があってそれに向かうことだと考える人と話していて息苦しさを感じるのは、感情的反応というだけでなく、そもそも生きるということはそんなことではないという認識の問題なのだろう。
2011-05-04 08:43:22目的(8)世の中には、目的と手段、効用をはっきりとうたったビジネス書がたくさんある。市場としては大きいのだろうが、生命哲学上の真理からは遠い。目的はミネルヴァのふくろうのように後から飛び立つのであって、まずは行為そのものに喜びを見いだすことこそ学ぶべきである。
2011-05-04 08:45:04目的(9)行為する時間そのものに没入し、無償にこそ報いを見いだすこと。「目的」から自由になること。「フロー」の喜び。舞踏の実践。そのような内的感覚をつかんでいる人が、もっとも強靱であり、結果としてリヴァイアサンたり得る。
2011-05-04 08:46:29きよ(1)このところ、時々『坊っちゃん』( http://bit.ly/lGy5U0 )の中の「清」(きよ)のことを思い出す。震災以来、人を批判する言葉よりも見守り育む言葉に注意が向くようになった。そんな中で、きよのことを書いた漱石の気持ちを、いろいろ考える。
2011-05-05 07:47:31きよ(2)明治の日本は追いつけ追い越せだった。そんな中、漱石も洋行エリートとして英国で勉強に励む。「国家」を背負って、大英帝国の繁栄の秘密を探ろうとする。そんな中、漱石は、絶望的なまでに行き詰まる。「夏目狂す」とまで言われる。
2011-05-05 07:48:43きよ(3)漱石は、なぜ、英文学が徹頭徹尾嫌いになってしまったのか。背後にあるアングロサクソン的な進化論、資本主義の思想。世界が今も駆り立てられている強迫観念。そのような文明の圧迫から、漱石は、「降りて」しまった。
2011-05-05 07:49:47きよ(4)人々を「より良く、より高く」への競争と駆り立てるその現場から降りてしまった漱石に、見えてきたのが「きよ」のような存在。時代遅れである。世界情勢など見えていない。えこひいきといっていいほどの情愛がある。坊っちゃんが立身出世しなくても、そのままで受け止める。
2011-05-05 07:51:09きよ(5)『坊っちゃん』の中で文明の趨勢に沿ってうまく立ち回っているのは赤シャツや野だいこである。しかし、漱石の情愛と共感は、明らかに時代遅れの「きよ」へと向けられている。そして、漱石がその限界を見抜いた進歩主義、文明の圧迫は、今もなお続いている。
2011-05-05 07:52:25きよ(6)グローバリズム、インターネット、英語。今の日本人を圧迫している文明の趨勢に、ある程度応えるのは不可避である。一方、「降りて」しまった人にも豊かな人生はある。何もわからず、ただ情愛に生きる「きよ」のような存在に輝きはある。
2011-05-05 07:53:33きよ(7)『坊っちゃん』( http://bit.ly/lGy5U0 )のラストで、きよと貧しいながらも一緒に暮らすことができた、その文章の持つ至福の感覚は、一体何なのだろう。ネットや英語、グローバリズムと騒ぐのも大切だが、一方では「きよ」の持つ温かい感触も忘れないでいたい。
2011-05-05 07:55:13きよ(8)漱石は、一高や東大で教える忙しい日常の中で、2週間程度で一気に『坊っちゃん』を書き上げたと言われる。人生にさまざまな迷いがある中で、「きよ」の物語を書くことは、漱石自身にとっても癒しであり、救いなのだろう。
2011-05-05 07:56:39きよ(9)自分を棚に上げて他人に「あるべき」とする「批判」の言葉が届いていないと思うのは、物事の本質は悪意や怠慢よりもむしろ無能力(incompetence)と感じるから。誰の中にも「きよ」がいる。そのことをわかった上で、切磋琢磨し、「自分の」能力を高めたい。
2011-05-05 07:58:20以上、夏目漱石の『坊っちゃん』に登場する「清」(きよ)についての連続ツイートでした。『坊っちゃん』は、青空文庫でも読むことができます。 http://bit.ly/lGy5U0
2011-05-05 07:59:40