今回の問題に関しては、大丈夫かなと。ロゴスを持つことが、他の動物にはないこととして、対比されているから。その点で、種差とみなすことはおそらく多くの賛同を得るだろう。ただ、「定義」とまで言うのは可なのか。「固有性」で止めておくべきかもしれない。
2011-05-05 16:16:03「理性的」ってことは、昨日もちょろっと関連することツイートしたけど、やっぱり魂の機能として捉えるのが普通で、それと(おそらく)身体に関わる差異である「二足」っていう種差との間には相剋があるんじゃないかなと
2011-05-05 16:23:28この二つを相補的に捉えるには、やっぱり「二足」っていうのが論理学(ないし形而上学)と生物学の双方でどのような身分にあるのかが非常に重要だと思う。アリストテレスほど生物学に造形の深い人物が「二足」を人間の定義の単なる例として使用していたとは考えられない
2011-05-05 16:25:28@shogo_takahashi 種差とか類とか特有性といった概念の変遷史は確かにすごくおもしろそうです。俺もこっそりとやっていってみようと思いますw
2011-05-05 16:33:11岩田靖夫先生は、「理性的動物」をzoion logon echon としている。やっぱり、『政治学』第1巻2章の部分が念頭になる模様。
2011-05-05 20:44:56やっぱり、「理性的動物」に関する解釈というか、その定義に基づく理論的展開は、納得できる部分もあるけど、違和感が強いかなあ。この違和感の原因は、おそらく私の方が理性(ロゴス)に強い期待を持っているというか、そ 理性の限界はもっと先にあると思っているのだろう。
2011-05-05 20:52:29Salamander_Kさんの「理性的は種差にならないのではないか」という指摘が非常に興味深い。/.@tatsuw0 さんの「理性的動物TLまとめ」をお気に入りにしました。 http://togetter.com/li/132371
2011-05-07 10:23:56@sskyt あわわ。ありがとうございます。でもまあ俺の言っていることはただの問題の指摘にとどまっているので、種差に観する問題をよりよく定式化したり、さらに掘り下げていくのは今後の課題としていきたいと思っておりますw
2011-05-07 10:31:51@Salamander_K うかがいたかったのですが、「理性的が種差になりえないのでは」という疑問は、「理性的である」は、本質にしろ固有性・付帯性にしろ、何らかの属性にはなりえない(可能性がある)ということでしょうか?
2011-05-07 10:35:33「理性的」とはいかなることか,ということか.ライプニッツは,「反省 réflexion ができるかどうか」に求めている. âme raisonnable という表現があるし,ライプニッツでは esprit に重ねられるし.
2011-05-07 10:37:21@sskyt というのも、アリストテレスにとって結局類と種差による種の定義の問題は「分割法」によらねばならないのですが、(俺が今まで見てきた範囲では)分割法によって「理性」という種差はアリストテレスの著作の中で出てきていないからです
2011-05-07 10:41:10@sskyt 「理性的」ということと「動物」ということは何らかの仕方で関係するとは思うのですが(実際高橋さんがおっしゃってたように『政治学』の中ではその二つの関係が明示されています)、ともかくポルピュリオスがそうしたようには簡単にその関係を明らかにすることはできないのではないかと
2011-05-07 10:44:22@Salamander_K なるほど。つまり、アリストテレスにおいては、「理性的である」は動物に術語付けられる性質としてよりむしろ、魂の機能として見られるべきである、ということですね。ご教示感謝いたします。
2011-05-07 10:52:18@Salamander_K 関連することなのでうかがいたいのですが、たしか以前、「種差は実体/非実体というカテゴリー的分類には属さないのではないか?」というツイートをされていましたよね。仮にそうだとすると、では、種差の身分は一体、どこに位置づけられるのでしょうか?
2011-05-07 10:54:25@sskyt ああ、種差の身分に関しては本当に厄介で、単一の答えは得られないんじゃないかと。たとえば『カテゴリアイ』や『トピカ』では種差は類と同じように扱われているので実体のカテゴリーに含めたくなりますが、『形而上学』Δ巻の性質の項目では、種差は性質の最初の例として挙げられてます
2011-05-07 10:57:41@sskyt でまあ、種差の身分を明らかにすることが結局定義とはどのようなものかに繋がっていくと思うのですが。一つの解決案としては種差を、それが類を「現実化(actualization)」させるものとして捉えられないかというのがあります
2011-05-07 11:01:59@sskyt これは種差=形相(本質)=現実態っていう構図と類=質料=可能態っていう構図を前提しなければならないので相当苦労して論証しなければならないところです。それらの関係が単に(アリストテレスの思考の)発展的なものなのか、それともなにか共通のものがそれらの間にはあるのか
2011-05-07 11:04:15@Salamander_K いえいえ、大変勉強になります。種差=形相=現実態/類=質料=可能態というのは、感覚としては非常によく分かります。その場合、「理性的」が種差になりえないというのは、理性は動物という類から人間を現実化するには十分でない、ということを意味しますね。
2011-05-07 11:09:17@sskyt ただその場合は問題の次元が違うのではないかと。つまり、『オルガノン』や『形而上学』では人間の理性的側面にあまり関心を向けなくても(ひょっとしたら)いいのかもしれませんが、倫理学や政治学方面だと理性の役割はやっぱり非常に重要になってくるはずなので
2011-05-07 11:11:56@sskyt ここらへんは、アリストテレスが自覚的に行った学の区別と関連してくるかもしれないのでまたおもしろいところです。それぞれの学には固有の対象があるというのが彼の前提なので、「理性的」ということが実践的な側面では人間に深く関わってくると考えたとしてもおかしくはないと思います
2011-05-07 11:13:46