読書における「勉強」と「研究」

読書には様々な形があり、その形のちがいは読書の目的をどう見るかによって生まれるものと考えます。 勉強としての読書と、研究としてのそれとを混同視したうえで、研究としての読書を認めない風潮が、昨今の哲学界にはあるように思われてならないのです。
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大角 康(宗純):文学フリマ東京 カ-21 香角 @koukaku0811
読書の形には様々なものがありますが、研究につながる読書は「自分の抱える問に対するヒントを求める読書」であると思っています。 何としてでもわかりたいにもかかわらず今の自分ではわからないものがあるから助けを求め、その助けを契機としながら自分の問へ答えることへと還ってゆく。この運動を twitter.com/yamagiwa_j_bot…
大角 康(宗純):文学フリマ東京 カ-21 香角 @koukaku0811
研究と呼ぶと思うのですが、そうだとすると研究における読書体験のなかで最も重要となることは「書かれていた内容を理解すること」ではなく、「その内容を皮切りとして自分が何を考えたか」であると思います。 前者に重きを持たせる読書を「勉強」と言い、後者に重点があるそれを「研究」と
大角 康(宗純):文学フリマ東京 カ-21 香角 @koukaku0811
私は呼びたいのですが、研究拠点であるはずの大学という場においてさえ両者が混同されていると思うのみならず、勉強のことをこそ研究とみなし、上記の意味で研究しようとする者の姿勢を認めない土壌が、現今の哲学界において形成されていると思われます。 世間において大学における哲学研究が
大角 康(宗純):文学フリマ東京 カ-21 香角 @koukaku0811
軽視されつつありますが、哲学研究が勉強の積み重ねにとどまって、時代の求めに応ずるような知見を生まないとするならば、軽視されてしまうことにも無理はないと言えるでしょう。

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