フランスにおける芸術家養成の諸課題 <才能を証明する>ことをめぐって

2011年5月11日@早稲田大学 Emmanuel Wallon エマニュエル・ヴァロン講演 (パリ・ウェスト・ナンテール大学教授、演劇学・文化政策学) おまけ 続きを読む
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BofE @BofE2019

ヴァロン「このような美的な基準が政治的な意味合いをもっていたために、芸術の中で様々な芸術要素を混在させるような作品は諦めなければならなかった。演劇や音楽など様々なアカデミーができたが、演劇のコンセルヴァトワールは音楽の吟唱のクラスからできあがっていった」

2011-05-16 18:42:19
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ヴァロン「このようにして、落水が池に段階的に満ちて行くように、中等教育などへも、アカデミーによって作られた芸術の技術や概念が徐々に浸透して行った。アカデミーがそれをやめたあとも浸透して行く。」

2011-05-16 18:44:14
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ヴァロン「次に挙げる年代は1968年である。もちろん他にも節目はあって、フランスにおける共和制の成立や第三共和国、議会政治の成立、あるいは1958年にアカデミーに変わって文化省が創設され、別のタイプの公的介入が行われるようになった」

2011-05-16 18:46:08
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ヴァロン「1968年と言うと私はフランスのボザールのシルクスクリーンのアトリエが1968年5月革命の反抗の精神の中心になったことを思い出す。そこで芸術教育のための機械を使って反抗やドゴール批判のスローガンを入れたポスターが作られた。」

2011-05-16 18:47:47
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ヴァロン「1968年5月革命の後9月の新学期に秩序をもたらすために、大学に大改革を強いた。このあとそれまで大学に行かなかった中流層が大量に大学に入るようになり、より深いところで、芸術教育や建築教育が変革された」

2011-05-16 18:49:37
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ヴァロン「例えば、大臣であったマルローが、それまでの伝統的なボザール(国立美術学校)とアカデミーの関係を断ち切り、ボザールが他の国立学校と同様に文化省の管轄下におかれるようになった」

2011-05-16 18:50:41
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ヴァロン「特に重要だったことは、中世のギルドに端を発するようなアカデミーのシステムから新しいシステムに変わったということである。もともと一人の先生に教わるだけだったのが、学生が複数のアトリエを渡り歩いて自分の教育課程を自分で作れるようになったのである」

2011-05-16 18:51:48
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ヴァロン「同時に当時の知識の制度そのものが疑いの対象になった。学校の中でも先生の話を遮って質問をしたり抗議をしたり、先生を親しげに呼んだり、先生の属する社会階層を批判したりということがあった。しかし重要だったのは創造性が上から下に、権威の中で作られるのかという疑い」

2011-05-16 18:54:14
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ヴァロン「権威のみが創造性をもたらすのではなく、卵からかえるように、孵化して行く芸術という概念が新たに生まれた」

2011-05-16 18:55:19
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ヴァロン「芸術はもともと選別的な同種/同業種の集まりであった。しかし1968年ごろ、芸術全ての領域に置いてこれが分裂した。音楽においても音階音楽なのか無音階音楽なのか、12音階なのかといったことが全てのところで激しく対立した。先生がどの立場かで自分のキャリアも決まった時代だった」

2011-05-16 18:57:18
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ヴァロン「しかし70年代は芸術に置ける前衛、つまりヌーヴェルヴァーグや前衛演劇、コンテンポラリーダンスの時代だった。そのころマルローから文化大臣を引き継いだ人は無力で予算も確保できなかった」

2011-05-16 18:58:29
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ヴァロン「そうした状況において芸術を学ぼうとする若者はむしろ芸大から外に行って現場に行って学ぼうとする。フランス語でOJTにあたる言葉はもっとキツい言葉なのだが、芸術学校よりも外の先生や海外にいって研修するようになる」

2011-05-16 19:00:26
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ヴァロン「しかしもちろんこうした形でやっていっても独学では限界があり、また芸術業界自体が閉鎖的なので、そこに入って行くためにはかなりの切り札を持ってないといけないという面があった。そこで国立学校や民間機関ができてくる。しかしパリと地方では選択の幅にずいぶん格差がある状況だった」

2011-05-16 19:02:20
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ヴァロン「そこに国家の介入が始まる。過去と断絶したというよりも新たに屈折変化し、それまでにあった変化を急速化した。1981年に共産党が連立で政権をとったときに文化予算が大きく(1年で2倍に)なった。」

2011-05-16 19:03:30
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ヴァロン「翌82年地方分権法が採択され、地方自治体に多大な自由が与えられるとともに、大きな自治体から基礎自治体まで、演劇音楽造形美術の学校に多大な芸術予算があてられるようになった。」

2011-05-16 19:04:35
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ヴァロン「もちろん当時文化活動が飛躍的な発展を遂げたのはこうした公的な後押しがあったというだけが原因ではないだろう。しかし公的に認められているということでアーティストのステイタスが向上したのは確かで、芸術家のキャリアに惹かれる若者が芸術教育機関におしかけるようになった」

2011-05-16 19:06:22
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ヴァロン「そのために公権力もこうした芸術教育機関を急速に整備しなければならなくなった。フランスは今現在もその状態である。しかし公的な芸術予算は削減されてきている。また舞台関係の技術者たちも、有名な一種の失業保険制度があったが、それがいま問い直されている」

2011-05-16 19:08:11
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ヴァロン「結局歴史の話をしてしまったが、重要なのはどのような教育の原則があり、そして分裂があるのか。芸術教育機関にどのような分裂があるのかということを話をしている」

2011-05-16 19:09:15
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ヴァロン「教育でもかなりの区別が行われている。視覚美術やパフォーマンスアートだけではない。音楽でも器楽は別だし、歌唱でもソリストか合唱かで教育がわかれている。しかし完璧な芸術家になるためにはセリフを言いながらジャンプしたり歌いながら楽器もひけなければならない」

2011-05-16 19:11:45
BofE @BofE2019

ヴァロン「このように芸術教育が専門細分化されるということは、アカデミーモデルの残滓といってもいいかもしれないが、書いたものによって規則をつくり伝達するという、フランス特有の合理性の問題と考えるべきかもしれない。つまり書かれた物が優先されるという」

2011-05-16 19:13:44
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ヴァロン「モンテスキューの「ペルシャ人の手紙」でも出てくるが、フランスに来た外国人がまず驚くのは、あらゆることに対立があること。伝統と革新の間などに絶えず対立がある」

2011-05-16 19:15:51
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ヴァロン「このような対立がずっとあるのは、フランスでは常に前衛が因習と対立したことで歴史が作られてきたということがある。これは視覚芸術に置いて強い傾向としてみられる。第一次大戦のダダや舞台芸術」

2011-05-16 19:17:40
BofE @BofE2019

ヴァロン「伝統だけではなく伝統に反対する思想をもつという傾向もある。特にヌーヴェルヴァーグ、60年代に新しく出てきた監督たちが、当時の最高の監督とされていた人たちに反抗するところから出てきた」

2011-05-16 19:18:47
BofE @BofE2019

ヴァロン「こうした分裂の下にはノウハウと発明の才という別の分裂が隠されている。これはモデルをコピーする職人芸とゼロから物を作るクリエーションの距離といいかえてもいい」

2011-05-16 19:19:07
BofE @BofE2019

ヴァロン「今挙げた2つの対立、職人と芸術、伝統とクリエーションに続いて、理論と実践という3つ目の対立もある。しかしこれは未だに私にとって悩ましい問題である。それは、大学と芸術学校の間の距離がなぜここまで広がったのか、その理由を見いだすことができないからである」

2011-05-16 19:20:09
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