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永井均 @hitoshinagai1
ふつう承認欲求といわれるのは自分の価値を認めてほしいというものだが、最低限の承認欲求は自分が存在していることを認めてほしいというものだろう。自分が存在していること自体を誰にも知られずに(普通にあるいは楽しく)生きることは可能だろうか?
永井均 @hitoshinagai1
以前、ほぼ同趣旨のことを知人(顔見知り)が誰もいない状況として書いたが、それだと刹那的な存在承認が生じてしまう余地があるので、AIによって管理される終身刑のような状況を考えた方がよいだろう。ネット、テレビ等による外界の閲覧は可能という条件を付けたほうが論点は明確になる。
非定期氏 @deknight440
@hitoshinagai1 承認欲求というのは実際に承認されたかは関係ない。よって承認されたと自らが考える(感じる)だけで満たされ「誰にも」は人間に限る必要はない 例えば無人島なら野生動物でもよいし、AIに承認された世界に承認された神に承認された、と、自らが存在する時点で任意の第三者を立てることができる
永井均 @hitoshinagai1
それは論点とは関係ないので、そのようにお考えの場合は、人間以外を含めて、誰からも承認されたと自らが考える(感じる)ことがない、という意味に理解されれば同じ問題が構成できます。(最初の論点とはとくに関係しないので、そのように考える必要があるわけではありません。その点は自由です。) twitter.com/deknight440/st…
永井均 @hitoshinagai1
非定期氏さんのご意見をポジティヴに(実質内容から見て)解釈すると、どんな場合でも「神」を立てることができるのでその意味での承認は必ず得られる、という意味にとることができ、それはポジティヴには有力な見解だと思うが、ここでは、それさえもなくても生きていけるか、という問題を考えたい
永井均 @hitoshinagai1
それさえもなくてもとは、いわば、キリストでなく仏陀でも、ということ。キリストよりも仏陀のほうが困難な課題を背負うということの意味を考えたいので。(ツイッターでは、こういう比喩的な文も字義通りに取る人が多いが、ここでそれは困りますよ。「いわば」にひたりついてくださいね。)
永井均 @hitoshinagai1
非定期氏さんの「神を立てる」話への応答として書いたスレッドの最後の「いわば、キリストでなく仏陀でも…」の後に書くべきことだが(明白にその繋がりの話なので)、「オナニーができれば大丈夫」という意見を聞いた。これは非定期氏さんの見解の一亜種で、「いわば、キリスト教的」と分類できる。
永井均 @hitoshinagai1
衣食住が保証されネットに繋がりさらにオナニーができるならば普通かそれ以上に楽しい(一生それだけでいい、むしろその方がいい)というご意見は、ただ個人的実感を語っただけだろうし、私の問題とも関係ないのだが、何かしら洞察的なところ(人間というものについて)があって、少々感動的だ。
永井均 @hitoshinagai1
「私の問題とも関係ない」という点については、禅僧のネルケ無方さんが唯一人関係ある私的メールを送ってくれたので、引用許可を得てごく一部ですが(かなり長いので)後に引用します。
永井均 @hitoshinagai1
このたとえはある意味では私たち人間の普通の状態を表わしているのではないかと思います。…「私の価値」ではなく「私の存在」を承認してほしいという場合、ネルケ無方という個人の…の存在を承認してほしいわけでもない。……比類のない〈私〉を承認してほしいのだ! しかし、それは無謀なご注文で…
永井均 @hitoshinagai1
無方さんはこの後、他者のそういう応えようのない承認欲に応えようとするのが菩薩の実践であるという方向に進まれますが、私はある意味ではむしろ逆に、実は「私たち人間の普通の状態を表わしている」というその認識自体が一種の悟りであり、したがって救いにもなりうるのではないか、と考えてみたい。
永井均 @hitoshinagai1
「ある意味ではむしろ逆」というより端的に真逆といえるだろう。「私たち人間の普通の状態」が、じつは(AIによって管理される終身刑状態のように)自分が存在していることを誰にも知られずに生きている状態なのだ、というそのことの自覚それ自体が救いとなりうる、という思想なのだから。
halching @halching1
ここは、「私たちの普通の状態」(※ただし無自覚)=〈私〉の存在は、私以外には誰にも知られることがない、と置き換えられる。これは、ネルケ氏の「比類のない〈私〉を承認してほしいのだ」に対して「しかしそれは無謀なご注文」と応対されていることと一致している
halching @halching1
それこそが独在性の意味なのだから。
halching @halching1
そう考えると、最初の問いかけ、「自分が存在していることを誰にも知られずに生きることは可能か?」には二重の意味があると読める
halching @halching1
ひとつめは、ひとは(無自覚に)〈私〉として普通に生きており、〈私〉は誰にも知られることがそもそもないだろう、という意味。
halching @halching1
もうひとつは、その〈私〉の比類なき断絶から、比類なき同類である《私》へと、至らずに生きることは可能なのだろうか?という意味。
halching @halching1
※永井均氏の議論に戻ろう
永井均 @hitoshinagai1
私は、これ以外はすべて、神であれ、オナニーであれ、何であれ、「菩薩が現れる系」と一括したい。それらはみないわば宗教である。私のは宗教の基の基だけあってまだ宗教になってはいない。(ここには循環が成立すると見なすこともできるので、後でまた無方さんの返信を引用します)。
halching @halching1
(ネルケ無方氏もそうだが)山下良道氏には特に、独在哲学とご自身の主張の(無理筋な)接続が垣間見え、げんなりすることがある。無自覚なのか、自覚的方便なのか、いずれにせよ永井氏自身がここに明言されたように、それは宗教で、独在哲学ではないのだ
halching @halching1
※永井均氏の議論に戻ろう
永井均 @hitoshinagai1
ゲームの虚しさに気づいて、一人の人間であることから一服していた者は、他のプレーヤーにも同じことに気づいて欲しいと願うようになる(発菩提心)。そのために、再びゲームに参加し、従来の「私」というコマを演じながら、新しい菩薩のルール(布施、愛語、利行、同事)で遊ぶことによって
永井均 @hitoshinagai1
他のコマ(『私』たち)たちに「お前はコマだけじゃない、ゲーム全体を見渡している存在だよ」と呼びかける。しかし、そのためにこちら側は〈私〉に安住せず、「私」に戻らなければなりません。(以下略。以上ネルケ無方さんからの引用)。  つまり、菩薩が現れるのではなく、自らが菩薩になるのだ!
永井均 @hitoshinagai1
もちろんこれも宗教で、宗教だから当然ある語りえぬことを言葉で語ってある一般的な「教え」を作り出すのではあるが、この大乗仏教の菩薩の実践はとりわけあからさまにパラドクシカルな実践のようだ。「お前はコマだけじゃない、ゲーム全体を見渡している存在だよ」「では、そう言うあなたは?
halching @halching1
これは永井均氏の言うところの、アキレスと亀。どこまでもいびつに突出し続けるアキレスと、それを平準化し続ける亀の、累進構造のこと。
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コメント

mikumiku_aloha @mikumiku_aloha 2019年9月18日
西洋的な哲学の流れは人間を特別視する傾向がありそう。犬やチンパンジーも「承認」されずに生きていけるのかという問いが答えになるかも。もしかしたら生きていけないかもしれない
halching @halching1 2019年9月19日
mikumiku_aloha 永井均氏の議論は、中心性と現実性の峻別を行うところから始まります。永井氏が問題にされているのは誰にでも成り立つ中心性としての承認の話ではなく、唯一端的に在る現実性の承認についての議論かと。言語を持つ、持たない、はここでは問題とされていないかと思います
mikumiku_aloha @mikumiku_aloha 2019年9月19日
『自分が存在していること自体を誰にも知られずに(普通にあるいは楽しく)生きることは可能だろうか』という命題に対して犬でもそれは難しいかもしれないと思ったのです。ゾウリムシだとそもそも自分の存在を他者が認識しているという認識が出来ないかもしれないなど。言語の有無ではなく
halching @halching1 2019年9月19日
mikumiku_aloha それはそれで議論してもよいのかもしれませんが、永井氏が問題にされている「存在」の問題とは無関係です。