- Eric_Ridel
- 1721
- 0
- 1
- 0
グロゾロという言葉を思いついた。誰でも知ってるメーカーのゾロ品は小ゾロ、全く知らないメーカーだけれどひたすら安いのが大ゾロだけれど、規制緩和が進むと、グローバルにゾロ品求めるところまで行くんだと思う。嫌だけれど。
2011-06-01 22:42:05このあたりは、日本の購買力というものがどれぐらい持つのかで、流れが変わる。国が滅べばグローバルどころじゃなくなるし、まだ息してれば、逆にもう国産品なんて高くて買えないだろうし
2011-06-01 22:44:44単なる感想文と、評論とを隔てているものというのは、トレードオフの可視化なのだと思う。分野の文理を問わず、評論を名乗るのならばこれをやってほしい
2011-06-02 07:43:53日野自動車がトラックのモデルチェンジをしたときに、軽量化とコストカットの要求が現場から出て、設計者はシリンダーを削る、という賭に出たんだという。伝統の直6を削って、直列5気筒の新しいエンジンを設計して、会議室は当初、無謀すぎると紛糾したんだと
2011-06-02 07:45:11軽量化の方法には、もちろんもっとゼロ戦的な、部分、部分のパーツを極限まで軽量化するような、裏を返せば設計者がそれほど頭絞らなくて言いやりかただって想定できたのだけれど、直列5気筒を実際に作った結果として、振動こそ増えたけれど、エンジン全体の振動の支点がずれたのだと
2011-06-02 07:46:34振動の中心点がずれた結果として、シャーシ側の対策パーツの点数を減らすことができて、これは結果として大成功だったのだそうだけれど、こういうのを「大胆な設計によって軽量化とコストカットを達成した」と書いてしまうと、それはどれだけほめても単なる感想文に過ぎない
2011-06-02 07:47:35評論家を名乗る人なら、こういう状況を見たときに、是非とも脳内リバースエンジニアリングみたいなものを見せてほしいなと思う。同じ状況に自分が置かれたとして、軽量化の手法には他にどんなやりかたが考えられるのか。それぞれの利点と欠点は何か。設計者はどうしてこの手法を選択したのか
2011-06-02 07:48:44選択した結果が成功であれ、失敗であれ、その成否を結果から逆算するのは、評論として卑怯だと思う。「リバースエンジニアリングできるのが評論家」という定義の流れからは、やっぱりプロダクトは、エンジニアとしての正義の視点から論じてほしい
2011-06-02 07:49:57「実際の設計」シリーズという畑村洋太郎が昔書いた本には、そういうのを「芋設計」と呼んで批判していた。結果オーライでも、設計者の正義に照らしてよくない設計。一つの部品にいくつもの機能を兼ねさせているとか。パッキンを、気密の目的でなしに、クッションとして用いている例であるとか
2011-06-02 07:51:05それをやることで、たしかにその設計者は部品の節約と、ある種の機能、コストカットや軽量化といった成果を上げたかもしれないけれど、これはたとえば、将来の拡張にその設計が対応できないとか、その製品を修理するときに、部品本来の使われかたをしていない部品を代替品で補うとトラブルになるとか
2011-06-02 07:52:09どの分野にも、たぶん技術屋の正義みたいなものがある。設計者に降りかかる要求と、実際に作れるものとのトレードオフを乗り越えたエンジニアは、こんどはたぶん、成果を成し遂げたその設計が、果たしてエンジニアの正義に照らして正しいものなのか、自らを問うことになる
2011-06-02 07:53:39もちろんそれは結果優先であって、「不正義だけれど優れた設計」が、世の中の大部分で、正義の設計をまじめにやるとろくでもない製品になってしまうのだろうけれど、それでもなお、たぶんどの分野にも正義があって、評論をする人は、やっぱり成果でなく、正義の視点からそれをやらないといけない
2011-06-02 07:54:44結果を見て、それをほめたり、叩いたりする。どれだけ美麗な文章でそれを書いても、それは単なる感想文であって、どれだけそれを読んだところで、エンジニアが持っている正義とか、その人が対峙したであろうジレンマだとか、伝わらない。
2011-06-02 07:56:00兼坂宏のエンジン評論の文章には、どうしてこの場所のボルトはこの太さでないといけないのか、どうして結束バンドの本数は4本であって、5本ではいけないのか、そういうのが書いてあったように思う。その上で、たとえ優れた性能を出しているものであっても、「この設計は正義でない」と書いてた
2011-06-02 07:57:22本田勝一の文章の書き方を書いた本(題名忘れた)には、全ての読点、句点には、そこにそれが置かれる理由が説明できるのだ、なんて書かれていた。だからたぶん、作家の人たちが行っていることだって等しく「設計」であって、そこにあるトレードオフと、作家の正義に照らした評論というのができる
2011-06-02 07:58:57先代に比べて、この部品がプラスチックになった。「軽量化の試みだ」「コストカットの影響だ」なんて書くのは誰にだってできるし、そういうのは評論じゃない。じゃあ軽量化、コストカットの要求が出て、他にどんなやりかたがあるのか。自分ならどうするのか。その手段は果たして正義なのか。
2011-06-02 08:00:24そういう意味で、感想文書いてる人は無数にいるけれど、評論書いてる人はすごく少ないというか、ほとんどいない気がする。自動車評論家、と呼ばれる人にしたところで。もちろんそもそもそういうのを求められていないのかもしれないけれど。
2011-06-02 08:01:51自動車だと、兼坂宏の大昔のエッセイ(手に入らない)とか、最近呼んだ由良拓也のエッセイ集は、自分が読みたいものがずいぶん書いてあった気がする。押井守の軍事語りは、分野が違う人だから、果たしてそれが正しいのかどうかはともかくとして、あの人なりの正義に照らして語るから面白い
2011-06-02 08:04:09評論というものは、本来正義を表現するためにあるのだと思う。それをそのまま言葉にすると、じつに陳腐でありきたりなものになるのだけれど、あるプロダクトを通じて、設計者の心理や哲学を逆算して、ジレンマを可視化して、積んだ先に、読者に正義を想像させるような
2011-06-02 08:08:03医療って、思考のレベルが「浅い」。結局処方の順列組み合わせが全てだから。代わりに疾患の数が恐ろしく多い。だから紹介状を読むよりも、処方箋を読んだほうが前の主治医が何を考えて薬選んだのかが見えることが多いし、たぶん同業者はみんなそれやってると思う。脳内評論。
2011-06-02 08:12:59恐らくはソースが読める、あるいは分解して中身調べられるどの分野においても、そうした脳内リバースエンジニアリングが可能であって、そこから先は、評論社と設計者との知恵比べみたいなものになる。
2011-06-02 08:14:03「世の中にはエンジニアと評論家しかいない。お前はどっちだ?」と、子供の頃、父親からたびたび問われて、あれが本当におっかなかった
2011-06-02 10:37:17一般家庭で飼う犬は軽く噛む、あるいは噛まないことを教わるけれど、軍用犬とか警察犬は、対照的に思いっきり強い力で噛むことを教わる。たぶん。もちろん特別な命令が入らない限りそうしないようにしつけられてるにせよ。
2011-06-02 12:28:52