私考:イタリア王位と中世ローマ皇帝位

カロリング朝~オットー朝の皇帝位について、メモまとめです。
11
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

ローマにおける皇帝戴冠の形式は、古くはフランク王カールの800年の戴冠式/西方における皇帝の再出現に遡れると思う。

2019-05-18 01:37:22
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

カール大帝の死後、その領土は息子ルートヴッヒ敬虔帝が一括相続した。 その後はヴェルダン条約に基づいて、その息子3人が分割された西/中/東フランク王位に就いた。

2019-05-18 01:40:04
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

以前も呟いた記憶があるが、カール大帝によって西欧に興った「帝国」(俗にフランク帝国、あるいは西ローマ帝国)の皇帝位は領土に直結…繋がるものではなかった。 カール大帝の孫の代で帝国は三分割(西/中/東フランク王国)され、うち中部フランク王国のロタール1世が皇帝位を保持した。

2019-12-16 00:29:04
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

しばしばロタール1世の領土(中部フランク王国)を「皇帝ロタールの王国」と呼ぶが、決して「中部フランク帝国」とは呼ばない。 そしてロタール1世も死後、その領土は三分割(イタリア/ロタリンギア/プロヴァンス王国)された。 pic.twitter.com/FWQyEbpDLE

2019-12-16 00:32:17
拡大
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

うち皇帝位を継いだのはイタリア王ロドヴィコで、皇帝としてはルートヴィヒ2世と呼ばれる。 これ以降、イタリアの覇権を握った者が皇帝位を兼ねるという構図が出来つつあった。 ルートヴィヒ2世には子息なく、没後に王国と皇帝位は叔父の西フランク王シャルルが、カール2世(禿頭帝)として獲得。

2019-12-16 00:34:20
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

その後に皇帝位は東フランクの同族カール王が継ぎ、カール3世(肥満帝)となった。 この際、東西フランク王国も合同されたが、カール肥満帝は子息を残さなかったので没後に領土は再度分解された。

2019-12-16 00:36:10
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

イタリア王位は女系でルートヴィヒ1世の血縁にあたるベレンガーリオが継承したものの、東フランク王位を継承したアルヌルフ(カール肥満帝の甥)としばし皇帝位を争った。またプロヴァンスを継承したルイ3世もこれに介入した。

2019-05-18 01:47:54
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

カール肥満帝の死に前後して、イタリア地方は諸侯が覇権を巡って争う群雄割拠の状態となった。 まず初めに制したのは、スポレート公グイードで、息子ランベルトと共にイタリア王に即位、皇帝位を称した。 同時にルートヴィヒ1世(敬虔帝)の女系孫であるイヴレーア辺境伯ベレンカーリオも王位を称した。

2019-12-16 00:39:04
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

グイードが死に、息子ランベルトが残されるとカール肥満帝の甥、東フランク王アルヌルフがイタリアに侵攻して皇帝位を称したので、ランベルトと在位期間が被っている。 ランベルトは早世し、アルヌルフが単独皇帝となったも束の間、翌年に没した。

2019-12-16 00:41:04
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

アルヌルフの没後、皇帝ルートヴィヒ2世の女系孫であるプロヴァンス王ルートヴィヒがイタリアに侵攻して覇権を唱え、皇帝位に就いた。 しかしベレンカーリオとの戦いに敗れ、盲目の身となって実質廃位となった。

2019-12-16 00:42:52
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

この頃にはもう「イタリアを保有する者が皇帝となる」という様式ができていた。 だから、東フランク王国が「帝国」となったとき、「ローマ皇帝位」はこのイタリアまで行かないと得られなかった。

2019-05-18 01:56:42
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

その後。というかライバルたちを倒してやっとイタリアの覇権を握ったベレンカーリオが皇帝ベレンカーリオ1世として即位。 しかしベレンカーリオ1世は暗殺され、再びイタリアは混乱状態に陥った。 皇帝を任命する教皇も、当時ローマで勢力を伸長しつつあったトゥスクルム伯に左右される時勢であり→

2019-12-16 00:44:53
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

以降、教皇座が不安定になって皇帝が任命されることはなくなった。 しかし教皇ヨハネス12世のとき、東フランク王オットーの勢力拡大を見てイタリアの平定を求めた。 オットーは北イタリアの反逆する諸侯を下し、ロンバルディアでイタリア王として戴冠し、ローマ皇帝にもなった。

2019-12-16 00:46:40
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

※この際オットーによって平定された諸侯のひとりがイタリア王ベレンカーリオ2世であり、子孫はブルゴーニュに亡命してブルゴーニュ自由伯となった。

2019-12-16 00:47:28
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

このため以降…オットー大帝の戴冠に倣って、歴代のドイツ王はイタリアに遠征してロンバルディアの鉄王冠を被ってイタリア王を兼任し、続いてローマで教皇から戴冠されて「皇帝」となる構図が成立する背景となった。 これは16世紀のマクシミリアン1世が皇帝宣言をするまで続き、歴代のドイツ王は→

2019-12-16 00:49:23
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

王として選出されると戴冠を果たすため、イタリア遠征を行うようになる。 つまりこういう歴史背景から、皇帝に就くにはイタリアを抑えておくことが肝要だったのである。

2019-12-16 00:50:26
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

カール大帝の孫の代に分裂した領土、そして領土から切り離された「皇帝位」という要素。 以降1世紀ほどイタリアの覇権を握った者が皇帝となった。 それが《帝国としての領土を伴う皇帝位》となったのは、オットー大帝の戴冠に始まると考えています。 俗にいう、神聖ローマ帝国(962〜1806)ですね。

2019-12-16 08:51:11
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

これ以降、東フランク王(=ドイツ王)が皇帝位を独占し、帝国を称して体裁を整えていきます。 オットー大帝の父、ハインリヒ捕鳥王の時代に分割相続は廃され、分割されない帝国としての相続が可能となった下地もあります。

2019-12-16 08:53:54
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

それでも以降、ドイツ王として戴冠(選出)されたら、皇帝冠を被るためにはイタリアに遠征しないといけないという構図はありましたが。 これはザクセン朝(オットー朝)、続くザーリアー朝(サリエリ朝)で継続され、その次のホーエンシュタウフェン朝の初代コンラート3世はイタリアに行かず→

2019-12-16 08:56:47
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

終生ドイツ王のまま在位して没しました。その甥フリードリヒ1世(赤髭帝)はイタリア遠征を行い皇帝戴冠を果たした後も、イタリアの平定を求め執拗に攻め込みました。

2019-12-16 08:58:46
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

【神聖ローマ帝国】はちゃんと【神聖でローマで帝国】だった? ほか、「カール大帝とフランク王国」など歴史談話 - Togetter togetter.com/li/1183872 @togetter_jpより 昨晩語った「私考:イタリア王と中世ローマ皇帝」についての補記、というか続編の読み物としてはこちらを参照ください。

2019-12-16 08:47:22
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

ちなみに1356年に金印勅書を出したカール4世は、カール肥満帝を3世と数えて自らを4世と名乗っている。つまり皇帝として、をカウントした訳だ。 しかし1133年皇帝即位なったロタール3世は、中部フランク(プロヴァンス)王「ロタール2世」をカウントして3世と名乗っている。

2019-12-16 00:55:07
はくえー🔱【各国の王侯情報紹介】from:西方元老院 @tomoshibi6o6o

また皇帝ルートヴィヒ4世(1328年戴冠)の「ルートヴィヒ」は「ドイツ地方を支配した君主」でカウントしている、らしい。 (岡地稔:「あだ名で読む中世史」より) togetter.com/li/1193928

2019-12-16 00:59:09