日テレ版ドラえもんについて(その2)「えびはら武司氏の日本テレビ動画版ドラえもんに関する証言は信頼性が極めて低いので真に受けないで下さい」

本まとめは2019年2月5日作成「日テレ版ドラえもんについて」(https://togetter.com/li/1316168)の続きです。
18
前へ 1 ・・ 3 4
ΝΑΠΠΑ @nappasan

@pareorogas 私はNUと全く関わりがありませんが、現行作と全くバッティングするわけでもない、限られた場での旧作の視聴機会すら萎縮させて奪うのは良い判断とは思えませんね。

2019-12-29 01:40:53
ΝΑΠΠΑ @nappasan

今年2月に日テレ版ドラについてえびはら氏の偏った見方が記事になった際書き留めたことを貼っておきます。 twitter.com/nappasan/statu…

2019-12-27 20:01:56
ΝΑΠΠΑ @nappasan

日テレ版ドラえもんについてこの方が語っている内容は非常に一面的で、客観性に欠けると思いますね。当事者としてある側面での事実は表しているのでしょうけども。 弟子が語るドラえもんの知られざる“黒歴史” headlines.yahoo.co.jp/article?a=2019… @YahooNewsTopics

2019-02-03 18:13:43
リンク Wikipedia ドラえもん (1973年のテレビアニメ) 『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』を原作とする日本テレビ動画制作のテレビアニメである。 『ドラえもん』のアニメには以下の3作品が存在する。 これらを区別する呼称は公式には発表されていないが、アニメ誌では2005年4月より放送中のシリーズを『ドラえもん(新・第2期)』としている。本項ではそれに倣い、1973年に日本テレビ系列で放送されたシリーズを第1作、1979年よりテレビ朝日系列で放送されているシリーズをまとめて第2作とする。また第2作において、1979年から2005年3月まで放送され
リンク Underground Magazine Archives 日本テレビ版ドラえもん設定資料集 - Underground Magazine Archives 日本テレビ版・キャラクター設定(1973) 日本テレビ版・美術設定(1973) テレビ朝日版・キャラクター設定(2017~2018)

もう1つの『ドラえもん』伝~真佐美ジュン氏に聞く~

第2特集:これがホントの日本アニメの全貌

その存在を誰も語ろうとしない幻のアニメがある。それはテレビ朝日版『ドラえもん』放送開始の半年前に放送された、いわば“元祖”となる日本テレビ版『ドラえもん』だ。『ドラえもん』が大きな変革期を迎えようとしているこの機会に、闇に葬られようとしている『もう1つのドラえもん』に迫ってみよう。(協力:よね)

デリケートな版権問題のからみか、日本テレビ版『ドラえもん』が公の場で語られることはほとんどない。しかし、多くの読者が子供時代に親しんだと思われる『ドラえもん』に別バージョンがある、しかもテレビ朝日版よりも先に放送されていたという事実を知ったなら、気になるのは当然のことと思われる。

各国で放送され世界的な人気を誇るお化けアニメであるだけに、日本のアニメ史を考える上でも貴重な存在であるはずだ。そこで、日本テレビ版『ドラえもん』の制作に携わった真佐美ジュン氏に作品の詳細について聞いてみよう。

真佐美ジュン氏プロフィール

昭和40年に虫プロダクション入社、『ワンダースリー』を手がけたあと、社長室配属『リボンの騎士』『展覧会の絵修正版』『サプと市捕物控』『フンターくんの初夢宇宙旅行』『千一夜物題』『どろろ』『やさしいライオン』『あしたのジョー』『アンデルセン物語』などの制作に携わる。昭和46年、手塚治虫氏が虫プ口の社長を退陣すると同時に、手塚プロに入社、映画部へ配属。『ふしぎなメルモ』で手塚氏の演出助手を務める。昭和47年に手塚プロ退社後、スタジオTAKEでの『モンシェリーCoCo』の制作を経て、日本テレビか面へ入社し『ドラえもん』の制作を担当。

真佐美ジュン氏は幻の『ドラえもん』にどのように関わっていたのか!?

真佐美ジュンという名前は、『ワンダースリー』や『ふしぎなメルモ』で演出助手を務めたときに使った名前です。『ドラえもん』を制作した日本テレビ動画では「制作主任 下崎闊」として働きました。仕事内容は『ドラえもん』全体のスケジュールの作成管理、スタッフや外注の決定や単価の交渉など現場の責任者です。はじめはパイロット版の制作や演出助手もやっていましたが、ジョーさん(=チーフディレクターの上梨満雄氏。のちにスタジオぴえろ創業メンバーの1人となる。押井守氏に『魔女っ子チックル』の仕事を依頼した演出家としても知られる)を迎えて演出が充実してきたので演出助手としての「真佐美ジュン」は途中から要らなくなりました。

『ドラえもん』との出会いは、『モンシェリCoCo』(1972年TBSテレビで放送。大和和紀原作。正延宏三氏、富野由悠季氏、大坂竹志氏、大貫信夫氏らがスタッフに名を連ねる)で日本テレビ動画の渡辺社長、佐々木一雄プロデューサーと知り合ったことがきっかけです。日本テレビ動画では『モンシェリCoCo』のあとの作品として企画を模索していましたが、そのなかの1つに『ドラえもん』がありました。『ドラえもん』に絞ったあたり…、私は1972年11月に結婚式を挙げていますが(手塚治虫氏が仲人を務める)、忙しくて新婚旅行に割く時間もなかったのでたぶんそのころと思いますが、佐々木さんから企画を打ち明けられ制作をまかせたいと頼まれました。『ドラえもん』の説明を受け、私は「子供に夢のある作品を」が心情でしたので、賛同して協力することを約束しました。

『ドラえもん』自体については小学館の学年誌、それも低学年向けのものに掲載されていたので、目に触れる機会もなく、まったく知りませんでした。相談を受けたあとは、夢があるし、ぜひやりたい作品と感じたので、実現したいと思いました。
 

同時期放映中の藤子作品『ジャングル黒べえ』は意識した?

『ジャングル黒べえ』(1973年3月2日~9月28日放送・31回全62話/毎日放送・東京ムービー制作)は、出崎統さん(『白鯨伝説』『コブラ』などの監督を務める。2005年公開の『AIR』の監督でもある)がやってらしたんですよね。当時は虫プロの末期のころで、親友の網田靖夫君や丸山正雄君(現マッドハウス社長)など『あしたのジョー』のスタッフなどがマッドハウスを立ち上げていました。ときどき阿佐ヶ谷のスタジオに遊びに行ったりしていたので、なにをしているのかを聞いたかもしれませんが、記憶にはなく、まったく気付いておりませんでした(笑)。

当時、『ドラえもん』の色を決めるために、小学館の井川編集長や坂本副編集長や『小学三年生』編集部の上野さんなどとお会いしました。それまでの校正紙などを持ってきていただいて、3色刷りのカラーページを参考に色指定したのです。いろいろ試してみましたが、カラーページの色分けのバランスがいいので赤はそのまま赤から、青は青のなかから、と選んで決めていきました。ほかのキャラクターに関しては、たとえば藤子先生が描いたものではないチンドン屋が出てくるのですが、それについても先生の了解はいただいたはずです。

ただ、藤子先生は細かく注文をされるようなことはありませんでした。徳さん(=文芸担当の徳丸正夫氏。『荒野の少年イサム』『0テスター』などの脚本を手がける)が先生とのパイプ役でしたが、とくに注文があった記憶はありません。この件でジョーさんにも尋ねたところ、ジョーさんは藤子先生に会ったことがないことが初めて判明しました(笑)。

『ドラえもん』は、まずパイロットフィルムを作ったのですが、その内容は第1話とほぼ同じで、ほとんどそのまま使用してます。そしてスポットや宣伝に4月1日放送開始のテロップを入れたものを作りました。私はそのラッシュプリントをいまでも持っていて、当時の資料として私のホームページ(http://mcsammy.fc2web.com/dr.html)にもアップしています。

ドラえもんは道具を出すとき「あ~らよっ」と言っていた?

この掛け声についても、ジョーさんに聞いてみました。ドラえもん役に富田耕生さんを選ぶにあたって(のちに野沢雅子氏に交代)、彼のアドリブに期待したとのことなので、その掛け声はきっと台本に書かれていたのではなく、富田さんのアドリブだったのでしょう(笑)。

「ガチャ子」についても(1970年代初頭、小学館の学年別学習雑誌に数回のみ登場してすぐにいなくなる、単行本には出てこない幻のキャラクター)、原作では連載が開始してわりとすぐに登場しましたが、アニメでの登場は第13話とけっこう遅い時期だったこともあり、よく質問されます。しかし当時は「幻のキャラクター」という認識も特別な意図もなく、原作に登場したので、その流れで登場した、たんにそういうことだったと思います。

主題歌(作詞:藤子不二雄、作曲:越部信義)も、いまのアニメソングにはあまりない短調の少しさびしい感じの曲だったので、なにか狙いがあったのでは? などと質問されます。『ふしぎなメルモ』(作詞:岩谷時子、作曲:宇野誠一郎)のときもそうでしたが、作曲者に制作サイドからとやかく言うことはありませんでした。藤子先生の作詞が先でしたので、このような曲になったか? ぐらいしか思いませんでした。ちなみにその曲をもとにジョーさんが絵コンテを描き、オープニングを作りました。作品が進むにつれて、この主題歌を仕事中にみんなけっこう口ずさんでたんですよ。

なんと! ジャイアンの母ちゃんは亡くなっている、という設定だった…

原作ではどうだったかは思い出せませんが、ジャイアン、スネ夫は敵役であっても悪人ではなく、のび太の友人です。ジャイアンの両親がそのあと出てくる予定もなかったので、ジャイアンの優しさを表現するために、あのような設定になってしまったと思います。

当時、原作マンガの『ドラえもん』の話数自体がまだ少なくて、脚本家が足りないぶんの話を作ったこともありました。単行本すら発売されておらず、校正紙を原作資料にしたくらいです。

先ごろ私のホームページの掲示板に『ドラえもん』のスポンサーについて(宮田自転車、ペプシコーラ、東鳩、任天堂、津村順天堂)書き込んでくださったかたがいましたが、そのとおりだったことを思い出しました。地方ではいすゞ自動車などもあったみたいですね。宮田自転車でドラえもんの自転車が発売されたかどうかなど、当時発売されたグッズについては残念ながらおぼえていません。いまとなっては貴重なのでしょうが…。

日本テレビ版『ドラえもん』はなぜ幻になってしまったのか…

『ドラえもん』は結果的に黒字だったのですが、それを作った日本テレビ動画が黒字だったわけではありません。『ドラえもん』終了後にアニメ制作に徴りた社長が辞任、日本テレビ動画は解散することになりました。放送に穴を開けないよう、料金の不払いを心配する外注さんを1軒1軒まわり、「迷惑をおかけするようなことがあったら、責任を取って私はこの業界から足を洗います。私の顔を立ててくれないか?」と説得しました。

しかし結果は、現金が不足し、会社の備品で支払うことに…。これで私は責任を取ってアニメ界から足を洗うことに決めました。セル画、セリフ台本、絵コンテ、カット集、色見本なども、処分にお金がかからないよう、そのとき全部燃やしてしまったので、日本テレビ版『ドラえもん』に関するものは、テレビ局や現像所がフィルムを保管していないかぎり、もう何も残っていないと思われます。

『ドラえもん』が私のアニメ制作の最後となりました。いまのように、すぐに視聴者の声が現場に伝わることもなかったので、当時の視聴者の反響や反応についてはわからないとしかいいようがありません。

現在、私のサイトで『ドラえもん』について残っているものはすべて公開してます。私が持っているのはセルとリテイクフィルム、ラッシュフィルムだけです。

「いまでもまだ『ドラえもん』を作りたいか?」と聞かれて、「作りたくない」と言えばウソになります。しかし、たとえば虫プロには約600人以上の社員が存在しましたが、現在、60人以上のかたが亡くなっていることが判明してます。そして120人以上のかたが所在不明です。私のようなアニメ馬鹿が、あのようなハードな仕事のやりかたを現在まで続けていたとしたら、間違いなくそのなかに入っていたでしょう。いまとなっては『24時間テレビ』のとき私を呼び出したにも関らず、無理に私をアニメの世界に引き戻すことをあきらめてくださった手塚先生に感謝しております。

この『ドラえもん』について触れられる機会はなかなかありませんが、『芸能人トリビア』という本(晋遊舎)で紹介されたり、テレビ朝日版『ドラえもん』の声優さん変更にからめて1社取材がありました。また、『特命リサーチ200X』(日本テレビ)でも、ぜひ取り上げさせてほしい、という依頼をいただいたのですが、テレビはやはりいろいろと難しいようで、けっきょく当日の放送を見ても、まったく触れられませんでした。

短い放送期間で当時のことを知っているスタッフもおらず、幻と言われるのもしかたがないことだと思います。でも間違って伝えられるのは汗を流した仲間に申し訳ありません。できるだけ思い出して、これからも正確に伝えていく義務があると考えております。

…真佐美ジュン氏から聞いたお話は、じつはもっとありまして...。それもアニメや手塚先生好きなら誰もが聞きたいことばかり。笑ったり涙目になったり、濃い時間を過ごさせていただきました。日本アニメ黎明期の作品を見て育ち、それを作ったかたに会える時代に生まれた自分を幸せに思います。(千田)

早すぎた挑戦!?『ドラえもん』初アニメ化・真佐美ジュン氏インタビュー

「ぼくのドラえもんが街を歩けば~♪」は、おなじみ、アニメ『ドラえもん』の主題歌だ。え? ぜんぜん違うって? これぞ我々が小学2年時に放送された日テレ版『ドラえもん』の歌だ。我々の頭の奥にある記憶を今ここで検証する。(文・足立謙二)

『ドラえもん』のマンガ作品が小学館の学年誌で連載され始めたのは昭和45年のこと。『オバケのQ太郎』や『パーマン』で子供向け漫画家の頂点にあった藤子・F・不二雄がその後を狙ってスタートさせた作品だ。テレビアニメが始まる以前からマンガ作品としてその存在を知っていた当時の読者も案外多いのではないだろうか。

かく言う筆者もその1人。昭和46年から47年に放送されたアニメ『新オバケのQ太郎』で藤子不二雄作品のとりこになっていて、「次はドラえもんが見たいな」と、自然に思っていたものだ。そんな気持ちを察してくれていたかのように、昭和48年4月1日、『ドラえもん』はアニメとなってテレビに登場してくれた。だが、そんな当たり前のように放送された『ドラえもん』のアニメ制作現場は相当バタバタしていたようだ。

アニメ『ドラえもん』の制作を担当した日本テレビ動画(当時)の真佐美ジュンは放送開始にたどり着くまでの様子をこう話す。

普通は4月開始の番組なら前の年の10月に編成会議で放映が決まるんですが、放送局内の事情で放送の3ヶ月前に急きょ、制作の話がきたんですよ。だからパイロットフィルムも慌てて作って、スタジオの近くにあった幼稚園に持っていって子供たちに見てもらって反響を確かめるとか、そんな感じでしたね

急遽決定したアニメ化、必死の人材確保。原作不足もアイデアでカバー

制作チーフを任せられた真佐美は、短い時間で何とか作品を形にしようと関東一円を東奔西走した。一番苦労したのは、制作に関わってくれるよい人材をどれだけ確保できるかだったという。当時は、アニメーターをどれだけ集められるかが制作の腕といわれるほど、人手が必要な時代だった。

よい人材を求めてかけずり回った自動車の走行距離は、1日に150kmを超えていましたね。確か当時は1人当たり3~4日で30枚か40枚ほど描いてもらうという条件でお願いしていたと記憶しています。また、アニメーターの下には原画担当の人が必要で、さらにトレース担当の人と背景画を描いてくれる人もいるなど、とにかくあちこちかけずり回ってお願いしました。そうやってなんとか優秀な画家をたくさん集めることができたのです

こうして人手はどうにか確保できたものの、この時期に『ドラえもん』をアニメ化するにはいくつか問題があった。

この頃の『ドラえもん』は幼年誌に掲載されているだけでしたので、一般的な知名度はそれほどなくて、関係者の間ではアニメ化にはまだ尚早ではないかと言われていたんです。当時、アニメになったことでようやく知られるようになったという感じでしたからね。でも『夢があって素敵な作品だよね』と評価が高くて、それじゃあやってみましょうかという具合に話は進んでいきました

しかし『ドラえもん』は原作の連載開始からまだ3年目、掲載されていた雑誌は月刊だったため、放送に乗せるには話のストックが絶対的に足りなかった。

当時の原作は低学年向けでしたから、話を簡単にしなければならなかった分、画を並べるだけのような展開が多くて、ストーリーも起承転結が短いので、付け足してアレンジしなくちゃならないとか、1話15分を持たせるのがやっとでした。番組後半の方はもう原作が不足してしまって、ほとんどオリジナルでやらざるを得ませんでした

一方、急ごしらえで放送を決めた事情からか、テレビ局サイドも「5%も行けば御の字」と『ドラえもん』にさほどの期待はかけていなかったという。

それでも社内で支持してくれる方々がいたので、当初半年契約だったのを1年に延長しようかというところまで話が進んでいたんですよ

だが、制作会社が突然解散という事態となり、当初の契約どおり半年で終了となってしまう。

現行作と違うジャイアンの家庭事情

前述のような原作不足の経緯から、この年日本テレビ系で放送された『ドラえもん』には、'79年からテレビ朝日系で放送される『ドラえもん』とは異なる設定が存在する。とくにまだ連載初期だったこともあって、キャラクターの性格や位置づけが微妙に揺らいでいる部分も少なくないため、そのあたりの事情を知らない若いファンからは「原作を逸脱した異端のアニメ」といったあらぬ誤解を招いてしまっている。

その端的な例がジャイアンの家庭事情だ。のび太やスネ夫の前では威張り散らしているガキ大将のジャイアンは、一方で家に帰るとオニのかあちゃんに頭が上がらない、というのがテレ朝版を見ている人々の常識。だが、日テレ版ではジャイアンの母はとうの昔に他界しており、その代わりに父親がジャイアンを養っている。そしてこの父親、背が小さくて貧弱でと、原作の腕っぷしが強く、ガタイのいい父親(滅多に出てこないキャラだが)とはまるで正反対なのだ。

真佐美によれば、原作不足のためにテレビ用に描き起こしたオリジナルの設定は藤子・F・不二雄の承諾の上で描いており、原作を外れた内容を作ったという意識はないそうだ。日テレ版が原作を外れたというより、その後作品を重ねていくなかでキャラクターの設定などが変化していったというのがどうやら真相のよう。

こういった経緯を一般視聴者が知らないのは無理もないが、日テレ版を見て、その後に制作されたテレ朝版のアニメやコミックスを見た人々の中には「あれは原作を逸脱したアニメだったのか」と批判的に受け止める声も一部にあるようだ。しかし当時は、そうした細かさは気にしないという作り手側の時代感覚があったのだろうし、見ている側としてもオリジナルの設定がなされていたことに目くじらを立てるほどの違和感はなかったように思う。

とはいえ、テレ朝版の制作サイドとしてはそのままにしておくのも居心地が悪いと思ったのか、日テレ版で採用していた設定の多くが変更されてしまっている。その後発売されたコミックスでも初期のエピソードはかなり抜けてしまっている ('09年発売の藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』には収録されている) 。

このような経緯があり、真佐美らが精魂込めて制作した日テレ版『ドラえもん』はその後、見ることができなくなり、アニメファンの間で、“幻のアニメ”と呼ばれる作品となった。

だが、我々が小学2年生のときに見たあの『ドラえもん』の記憶は確かなものであり、その後の作品で変えられてしまったとしても、我々の頭の中から消すことはできない。

その日テレ版『ドラえもん』は現在、全話の映像は残っていないものの、一部のエピソードとパイロットフィルムは真佐美自らが所有しており、多少状態は悪いものの視聴は可能な状態だという。しかしながら『ドラえもん』のアニメ化版権を持つ藤子プロとの関係から、一般に視聴できる機会が見出せないというもどかしい状態にある。これについて真佐美は悔しさを滲ませながら語る。

私自身、自分たちが手がけた『ドラえもん』の記録を残そうと活動をしているのですが、藤子プロと話をしようにも、制作した日本テレビ動画自体が解散してしまっていますから、どうしても不利になってしまうんですよ。その上ネットなどを見ると『あれは駄作だった』とか、誰が書いたのか知らないけれど藤本先生(藤子・F・不二雄)が手元に帰ってきた映像を見て怒って燃やしてしまったとか、あらぬ噂がどんどん膨らんでいってしまって。作品を見た上での批評はしっかりと受け止めますが、作品を見せることのできない状況で駄作、などと言われてしまうのは悲しいですね

初アニメ化が果たした意味。世界的人気アニメにつないだバトン。

それでも、真佐美は現在も放送されているテレ朝版『ドラえもん』については、非常に好意的に受け止めている。

初めてテレビで見たときに大山のぶ代さんの声がすごくよくて、これはもう任せてしまっていいやと思ったんですよ。すごくうれしかったですよ。だってピッタリですよね。もうあれでドラえもんといえば大山さんということになりましたから

その上で、自ら手がけた『ドラえもん』に強い誇りを感じていると真佐美は語る。

最初の、まだ原作も少ない頃、ともすればポシャりそうになっていた『ドラえもん』を世に認知させたのはこの作品だと思っています。そういう意味では長続きするきっかけにはなっていると思います。その後の『ドラえもん』がヒットしたのは我々のおかげとは思わないけれど、作品として命拾いさせたというか、そういう意味ではやってよかったなと思っています。その上で(テレ朝版『ドラえもん』を制作している)シンエイ動画さんの努力、これは大人たちの世界云々というのではなく、私たちと同じくアニメの制作に携わる同志が一生懸命やったからこそ、こういう結果に繋がったんですから。そしてそれを応援してくれる子供たちがいたからこそ、ここまで来られたんだろうと思います

世に放たれた作品である以上、そのキャラクターは原作者や版権者のものである以上に、愛し続け育て上げてくれた世界中の子供たちのものだと、真佐美は強調する。

(誰に権利があるかなど)その辺、とやかくいうつもりはなくて。ただ、大人の思惑で動いてしまうというのは何ともやりきれないなと思いますね。やはり『ドラえもん』をヒットさせたのは見ていたお子さんたちだと思うんですよ

そんな子供たちの最初の世代こそ、我々だ。自分の息子や娘が「ドラえもん大好き」という読者も大勢いることだろう。そんな息の長い人気の影には、その存在を確かなものにしようと時間も惜しまず汗を流した大人たちがいたことを、旧作の記憶とともに噛みしめておきたい。

ドラの裏に神様あり

『ドラえもん』のアニメ化の影には、藤子不二雄の師匠筋でもある漫画の神様・手塚治虫の存在が大きく関わっていたという。当時、手塚の右腕とも呼ばれていた制作チーフの真佐美ジュンは「『ドラえもん』はいい作品だからやりなさい」と度々励まされたとか。オイルショックの前触れ的に化学製品が高騰し、アニメ用のセルや絵の具が入手しにくくなった折のこと、「問屋さんに手塚先生が直に電話して口説いてくれたということが何度かありました」。

まさにドラの裏に神様あり困ったときのドラ頼みならぬ、神頼みといったところか。

(引用者注:手塚治虫と真佐美ジュンのエピソードは宮崎克+野上武志『TVアニメ創作秘話~手塚治虫とアニメを作った若者たち~』でコミカライズされた)

ドラえもんのイメージは執事だった!?

ドラえもんというとのび太の永遠の友達というイメージだが、当初原作者、藤子・F・不二雄は、何をやってもダメなのび太を陰で支える執事のようなものを想定していたという。その設定から日テレ版ではドラえもんはおじさん声の富田耕生が担当することになった。だが、実際放映してみて違和感が生じたのか、14話からは女性の野沢雅子(ドラゴンボールの孫悟空)に交代した。また、のび太のママの声をテレ朝版ののび太の声の小原乃梨子が、ジャイアンの声をテレ朝版のスネ夫の肝付兼太が当てるなど、妙なキャストの巡り合わせが起きている。

裏番組は強敵ばかり

『ドラえもん』の放送は、日曜日夕方7時という、日本テレビがそれまで歴代苦戦を強いられてきた時間に放送されることとなった。この裏にはロボットアニメの金字塔『マジンガーZ』や、解答者の乗るゴンドラが昇降し競い合う『アップダウンクイズ』など人気番組が目白押し。子供向け番組同士もバッティングするなど熾烈さを極めた。しかも父親のチャンネル権は絶対という時代。プロ野球中継やNHKのニュースなど強敵揃いだった。テレビ局サイドも5%も行けばいい方と、ある意味寛大な姿勢だったが、結局『ドラえもん』は半年で終了した。

ここが違う。あんなキャラ、こんなキャラ

日テレ版『ドラえもん』は原作の連載開始から間もなかった時期に制作されたため、現在我々が知るものとはかなり異なる部分が多い。現在のテレ朝版ではお目にかからないキャラクターも何人かいる。その1人が番組後半に登場したアヒルのような小型ロボットのガチャ子。ドラえもんのお助け役にと未来の世界からやってきたガチャ子だが、ドラえもんにとっては何かとうっとうしい天敵キャラだった。

昭和40年男 2012年 10月号 [雑誌]

クレタパブリッシング

リンク kiokunokasabuta.web.fc2.com 旧ドラ特集其の四・製作者インタビュー 8 users
前へ 1 ・・ 3 4