- miurano_suke
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茫と戦国期南奥における「中人制」ついてまた考えてみた。 これは以前も述べたけれど、南奥で、他の地域に比べて「中人制」が機能した理由としては「縦横に張り巡らされた血縁」の存在が挙げられることが多いわけだけど、これはやはり違うのではないかなあ(もちろん影響なくはなかったろうけど)。
2019-09-16 16:58:13では何が南奥で「中人制」を持続させたのかと言ったら、当地で圧倒的な勢力を持っていた伊達家やそれに次ぐ存在の蘆名家が保守的(旧来の秩序護持)な立場に回っていたことなのではないかな。
2019-09-16 16:58:42南奥でも戦争による実力での勢力拡大(他家を味方に付けたり麾下に置くのでなく、その領土を制圧してしまうこと)を目指す動きはあった。
2019-09-16 16:59:10例えば毎度おなじみ切れたナイフの田村家なんかがそうだと言えると思うが、この田村家の動きは当初は伊達稙宗によって、後には蘆名盛氏によって抑制されている。
2019-09-16 16:59:36つまり自家の利益のみを追求して他領を奪い取ろうとすると、最終的には伊達家や蘆名家といった大勢力を敵に回して潰されてしまう。それが見えているから、その前に近隣の仲裁を入れて和睦を容れざるを得ず、結果として「中人制」による秩序が続いたということなのではなかろうか。
2019-09-16 17:00:06こう考えると伊達家と蘆名家の関係というのは南奥地域の秩序安定にものすごく大きな影響があった、というか、両家の友好そのものが当時の南奥の秩序を規定していたと言えるかも?(言い過ぎか//_o\)
2019-09-16 17:00:45東国では南奥における伊達家や蘆名家的な存在たり得る今川、武田、北条の各家が同盟したというとこまでは南奥と似た形だが、その先、安定したそれぞれが実力剥き出しの他領制服に向かったことで「中人制」の機能不全→力による新秩序の形成→特定勢力の強大化という状況が生まれたのではないかなあ。
2019-09-16 17:02:12こう考えると(最近は言われることが減ってきたように思われるが)南奥では戦国最末期まで劇的な情勢の変化が起こらなかった(地方を統一するような巨大勢力が生まれなかった)のは、
2019-09-16 17:03:38奥羽に「特有の後進性があった」のではなく、「たまたまそういう流れになったに過ぎない」と思うのだけど、どうかな(「そういう流れになった」理由はもちろんあるけど、それは後進性というのとは違うのでは?ということです。念のため)。
2019-09-16 17:04:00まあ東国情勢についてはきちんと勉強してないので印象論。所詮素人のタワゴトでございます。毎度ながら愚考の垂れ流し、失礼しました<(_ _)>
2019-09-16 17:04:18地域内(または勢力間)での緊密な血縁や人脈が形成されるのは奥羽に限らないことで、これが中人機能の要因か?となるとやはり疑問ではあるし、奥羽の中人ってなんだかんだ伊達・蘆名勢力圏のセーフティネットという感はあるんだよね
2019-09-16 17:15:49これ全く同意で、伊達家単体でも強力過ぎて太刀打ちできないのに、伊達蘆名が友好関係にあるとなるとその両方を敵に回すことになって、それは無理!となってたと思うんですよね。逆に伊達家、あるいは蘆名家に頼れば何とか状況を覆せる環境があったと。 twitter.com/4SX9iJDihw/sta…
2019-09-16 18:58:35これが伊達家は輝宗、蘆名家は盛興が家督となった辺りから自分達中心の新秩序を志向する気配が見え始めて…それで最終的に伊達家によって蘆名家が追い落とされたのが切ないとこだけど//_o\ twitter.com/miurano_suke/s…
2019-09-16 19:02:11南奥羽の室町秩序の護持に伊達氏と蘆名氏が役割を果たしたのは、それが彼らの直接的利益になったからじゃないかな。 鎌倉府の崩壊と、大崎氏の衰退に対応し、幕府は伊達氏を奥州守護職として、地域の治安秩序の中心に置いた。蘆名氏は伊達氏と強固な関係を結び、地域の双璧となっている。
2020-01-15 12:32:27@4SX9iJDihw 伊達蘆名のタッグにとってみれば、自分たちに優位な秩序を改変する動機に乏しい。 三浦介さんが引き比べた東国の三国同盟は、逆説的に現体制で得られる利益が乏しかったということなのではなかろうか。あちらは詳しくないので適当なこと言えないけど
2020-01-15 12:35:28政宗期になって、伊達氏が領国化の拡大という方向に乗り出すのも、京都政局の質的な変化、蘆名勢力の瓦解、佐竹氏の進出などで体制護持の利益が得られなくなった、または困難になったゆえの現実的判断ということでは。 それでも政宗自身は後々まで奥州守護的な価値観にこだわり続けるわけだが
2020-01-15 12:42:12中人制についてはこないだのコレ。遠藤啓之氏「戦国期南奥における領主間紛争」で中人を介さない直接の和睦交渉の存在が示されている。これはつまり中人の存在は「必須ではなかった」ことを表してると言えるのではないか? そうなるといろいろうーん… twitter.com/miurano_suke/s…
2020-06-02 21:28:52改めて戦国期南奥における「中人制」については、遠藤啓之氏「戦国期南奥における領主間紛争」(『南奥中世史への挑戦』2018.3)において行った、
2020-05-24 18:44:52昨日の戦国期南奥の「中人制」に関連して。なぜ南奥では中人を介した和睦による紛争抑止が盛行して各勢力が維持されたのか。その主要な理由に「南奥に特徴的な縦横に張り巡らされた血縁(婚姻)関係」を挙げることには改めて疑義を呈しておきたい。
2020-06-03 18:21:44では生まれた女子はどうしてたの?と言えば近隣の身分的に釣り合いが取れる家に嫁いでいたとしか考えられない。となれば右を見ても左を見ても親戚という状況は南奥に特有の話とは到底言えないのでは…。
2020-06-03 18:22:52前述のようにこれは推測に過ぎないけれど、実は「縦横に張り巡らされた血縁(婚姻)関係が南奥に特有のものである」という事もきちんと証拠立てて論述されたものは寡聞にして知らない。
2020-06-03 18:23:41つまり「推測に過ぎない」という点で同じなのではないか? なのに「特有である」ということが「前提」にされ過ぎてやしないか?という疑問が拭えない。
2020-06-03 18:24:20じゃあ中人による抑止盛行の理由はなんなのと問われれば、これもよく言われることだけれど一つ、南奥諸侯の間に「平等意識」があったことは言えると思う。 twitter.com/miurano_suke/s…
2020-06-03 18:24:57それでここからは妄想に入ってしまうのだけれど、この「平等意識」の本として「血縁(婚姻)関係」が大きな影響力を発揮したのでは?
2020-06-03 18:25:45