天正13年奥州津軽宇杭野合戦と、戦国期南部氏最新研究について
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佐々成政さんのささら越えの話が出てたんで、南部軍の残雪残る天正13年の津軽遠征(浅瀬石攻め)のルートってどうだっけ? ってふと思い立ってマークしてみた。オレンジの手書きラインが進軍ルートね。 pic.twitter.com/do2sDLPe7M
2018-06-28 23:19:36永禄元亀頃の津軽地方(青森県西部)は 三戸南部氏出自の大光寺氏 久慈南部氏出自の大浦氏 名族北畠出身の浪岡北畠氏 の大きな三氏に加え、千徳氏(一戸南部氏出自)堤氏(三戸南部氏・大光寺同族)他中小領主が分立する土地で、その宗主国である三戸南部氏が郡代として派遣していたのが石川高信。
2020-01-15 23:08:38で、大浦為信――後に津軽藩の祖となる津軽為信は、元亀2年に石川高信を、天正4年に大光寺氏を、天正6年に浪岡北畠氏を滅ぼし、安東氏との戦いを経て、天正13年に残る外ヶ浜を占領する。その天正13年に発生したのが宇杭野合戦。
2020-01-15 23:08:39【宇杭野合戦とは】 天正13年に奥州津軽で発生した合戦。その年の3月、大浦為信が津軽平野と青森平野を分ける津軽山地を越えて陸奥湾に面する外ヶ浜に侵攻を開始し占領。南部側は為信方についた浅瀬石の千徳政氏を征伐するため、奥羽山脈を越えて津軽浅瀬石城に攻撃を仕掛けるも敗北する。
2020-01-14 20:02:22その後大浦為信は田舎館の千徳政武を敗亡させ、津軽統一を完了させた――というのが津軽近世史における筋書。しかしこの天正13年に起こったとされる合戦も、書状の年代比定によって疑問点が多数出てきており素直に信じないほうがよくなっている。
2020-01-14 19:15:01南部軍が進軍したのは天正13年4月4日。西暦に換算すると5月3日になるので、雪は大分溶けている。このルートは江戸期には存在した間道で、図の通り津軽側の出口に街道を扼する形で幾つかの城館が存在する事から、戦国期にも既に存在した道だと考える事が出来る。
2018-06-28 23:22:54南部側の出口は三戸南部氏の『幕後』と言われる奥入瀬川流域に接続しており、他氏(例えば七戸氏や津軽諸氏)の領内を通行する事なく、浅瀬石に直接進撃する事が出来る。 3月には要衝・外ヶ浜が陥落していて、急ぎ軍勢を動員するのに他氏の協力を得る事なく早急に対応した結果がこのルートなのかしら?
2018-06-28 23:33:45軍事行動に関する郡中の同意を得ていたら大浦方の素早い動きに対応できない。それを理解していたからこそのこのルートと動員だとしたら、割と機敏だと思うんだよね信直。油川城陥落が3月28日だから、それ以前から津軽の攻勢が始まっていたとしても。
2018-06-28 23:42:21この地図見ると浅瀬石千徳氏も街道の出口を扼する形で成長した勢力なんだなぁ、と改めて思ったり。 浅瀬石千徳氏は天正13年4月の為信による外ヶ浜侵攻に際して、外ヶ浜の交通の要衝である新城(津軽新城駅近く、羽州街道の出口にある)を支配してるあたり、流通支配の重要性を心得てたんだろうなぁと。
2018-06-29 22:05:11三戸南部氏の石川高信も南津軽平野への出入り口である石川城に居を構えているし、これまた三戸南部出身の堤氏も横内城という街道の出入り口に城をかまえてて、南部方面から津軽にアクセスする出口を悉く抑える事で津軽支配を推進していた感ある。それを打破したのが津軽為信とも言えるか。
2018-06-29 22:12:48浪岡から外ヶ浜に向かう大豆坂街道の外ヶ浜川出口には高田城というのがあるのだけれども、ここは石川高信配下の土岐大和助則基が支配したとされる。津軽為信が制覇するまでの津軽諸勢力は、南部氏勢力にその出口を押さえられ、津軽平野の中に押し込まれていた、とも言えるかしら?
2018-06-29 22:24:12あ、そうだ。戦国期南部氏が抑えた要衝として重要な場所がもう一つあった。藤崎だ。平川と浅瀬石川の合流地点にして、津軽三郡(鼻和・平賀・田舎)の境。糠部南部氏はここを番城として支配してた時期がある。
2018-06-29 23:03:44ちなみに、自分は現在の所天正13年の合戦は、(消極的だけど)あくまで浅瀬石千徳氏と三戸南部氏の対立であって、大浦氏と三戸南部氏の対立ではない派。
2019-09-30 00:59:45天正17年の時点で、横内(青森)や大鰐辺りを大浦が掌握していないのは南慶儀の書状から明らかなので、天正13年に津軽を統一したとする近世津軽正史の虚構は明らかなのね。ついでに南部正史もダウトなんだけど。
2019-07-16 20:38:52元々南部家の正史と津軽家の正史では、時系列が違うというのが混乱の元で、南部側では天正18(1590)年に津軽為信が挙兵して津軽を略取した、とするのに対して、津軽側では元亀2(1571)年に大浦為信が津軽郡代の石川高信を討ち、天正13(1585)年に津軽を統一した、として、この齟齬を巡り議論が(続
2018-07-24 23:53:47続けられてきたのだけれども、多分80年代位には史料に書かれた状況から津軽正史の方がおおむね正しい、と考えられてきたのだけれども、斎藤利男先生を中心に『南部史と津軽史の双方で口をつぐんで語らない部分を合わせれば大まかな政治過程は符合する』とする折衷案が唱えられた。しかし、近年(続
2018-07-24 23:53:48になって、主に津軽正史の正しさの根拠とされてきた南慶儀書状の再検討によって、それが元亀2~3年ではなく天正17(1589)年頃の政治情勢を示すものだと明らかになり、一転して南部正史にもそれなりの根拠があった記述だったんじゃないかという話になってる。ただ、その年代比定によって得られ(続
2018-07-24 23:53:48た成果も、南部正史と一致するわけではなく、実際にはどうなっていたのか現在研究が進行しているわけね。おおまかにはこんな感じ。 この辺の年代比定を巡って色々な事象が否定されたり復活したりを繰り返しているので、ヘタに一つの説を鵜呑みにすると地雷を踏むのが南部津軽戦国史だったりする。
2018-07-24 23:53:48戦国期南部史の様相を書いた貴重な史料として3月24日付南慶儀書状、というのがあって、従来これは元亀2年の大浦為信決起の頃の物とされてきたのだけれども、最近これが天正17年に比定する説が出てきた。この書状が天正17年だとすると南部津軽両方の正史がめった切りされてしまうので楽しい。
2017-01-14 20:40:58この書状では ・大浦氏が決起してる(南部正史否定) ・大光寺氏が津軽の勢力として生きてる(=南部&津軽正史否定) ・大浦氏は陸奥湾沿岸の横内や南津軽の入り口の大鰐すら勢力下におさめてない(津軽正史否定) と長くもない書状だけれど天正17年比定だとこうなってしまう。
2017-01-14 20:45:50