編集部イチオシ

北奥羽における鉄砲に関する記録の一部と、鉄砲の呼称『錆』についてのちょっとした記録。

タイトル通り。もちろん、史料を網羅して考えたものではありません。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

北奥羽地域に鉄砲が来たのはいつ頃なんだろ?

2012-09-10 09:14:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

手持ちの史料で、南部家からまず一次史料拾ってみると、一番早そうなのが1567年の八戸と櫛引の抗争の際に、櫛引への同心を疑われた東政勝が送ったとされる書状。『八戸新田殿(新田盛政)』に書状を送った際に、『蓋かね御用の由承り候つれども、持ち合せず候条……』という一文がある。

2012-09-10 09:17:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

新田氏は詫言(櫛引への関与の否定)をした東氏に対して、儀礼として蓋金を要望したが、東氏は持ち合わせがないので母衣を送る、という内容で、蓋金は銃の部品、おそらくは火蓋か火皿のことと考えられ、この八戸家の事件の年号が事実であるのなら、1567年の時点で鉄砲が存在したことになる。

2012-09-10 09:19:44
帆船ハッカ @kotosakikotoko

だが、この年代比定を裏付ける証拠は八戸家伝記以外に無く、少々信憑性がなく、また『蓋かね』が火縄銃の部品以外の何かである可能性もあるので断定はできない。

2012-09-10 09:19:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

また、同じく南部氏重臣の南慶儀の6月6日付八戸氏宛書状で『七戸へ鉄砲御合力の由承り候て然るべく存じ候……』という記述がある。ただ南部史と津軽史では御存じ、大浦為信の蜂起の時期について10年ほどの差がある。

2012-09-10 09:21:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部史を取るなら天正16年~18年、津軽史を取るなら元亀2年から津軽を統一した天正13年の間、ということになる。(個人的にはこの書状は青森県史等で考察されている天正17年説を取るが)

2012-09-10 09:22:20
帆船ハッカ @kotosakikotoko

次に安東氏。この書状も年代比定が定まってないけど、鹿角の有力豪族『大湯殿』宛の安東愛季書状には『従是も近日鉄砲射共可差越候……』とある。津軽史における南部氏の浅瀬石城攻めの際の天正13年説か、永禄年間に安東愛季が南部領鹿角に侵攻占領した永禄9~12年説が有力。

2012-09-10 09:23:07
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと越前朝倉の一族か家臣とされる一源軒宗秀が愛季に対して書状とともに贈り物をした際、脇差などとともに、国友の丸筒を贈っている。この書状は能代市史では永禄7年に比定されいる。

2012-09-10 09:30:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

戦国期における安東氏の鉄砲の総数については、湊檜山両家合戦覚書に『檜山ニハワツカ鉄砲三百挺ホト』という記述や、実季期に9人の頭が40人~70人の鉄砲足軽を率い、各々の城に50~70挺、場所によっては100挺配置し、在々の侍にも持たせた、って記述はあるけど近世史料なんで信憑性一考。

2017-09-22 01:23:21
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと慶長6年の『御鉄砲衆・御鑓衆知行方之帳』だと7人の上級家臣が125名の鉄砲衆を預かっている。これで全部とも思えないけど、関ヶ原の頃にどういう立場の人が鉄砲衆だったかは分かる。

2017-09-22 01:26:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『御鉄砲衆・御鑓衆知行方之帳』だと鉄砲衆が姓持ちであるのに対して、鑓衆が無姓である、という事が指摘されていて、秋田家において武器持ちの身分が示されている辺りも面白い。

2017-09-22 01:30:07
帆船ハッカ @kotosakikotoko

面白いのは、愛季書状や南慶儀書状で『鉄砲射』『鉄砲合力』と記述していて、鉄砲を一つの部隊単位として記述していること。永禄~天正年間の北奥において、既に鉄砲を集中運用する兵種別編成を行っていた可能性を示すものと考えることもできる。

2012-09-10 09:35:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部氏も安東氏も鉄砲をまとめて運用している様子が読み取れるのだけれども、前にフォロワーさんに、他の大名(蘆名)を例に『奥羽の大名が鉄砲隊という運用をしているのは、大量に配備していないからこその運用なのではないか』という指摘を受けてなるほどなぁ、と納得したり。

2017-06-30 00:52:17
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あと信憑性薄い史料だけど、聞老遺事の九戸戦時の南部側動員諸氏を列記した『人数積』だと、意外と鉄砲持が多いんよな。槍持よりも圧倒的に多くて弓持より多分多い。ただこれ本文で脱漏があるって認めてるし、武具を明記してない諸氏も多いから、信憑性云々はともかくも実際どうだったかはわからん。

2013-11-19 19:50:12
帆船ハッカ @kotosakikotoko

これだと千石以上の武将は大体5挺は持ってるねぇ鉄砲。

2017-04-22 23:31:57
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あー、小野寺義道書状にも『錆(火薬)』って文字がある。横手市史だと鑓か? と疑問もたれてるけど、鉄砲と火縄の話の流れで出てくる単語だから、多分錆=火薬でいいんじゃないかなぁ。 や、南部領でも鉄砲衆を『錆衆』と呼ぶことがあるそうなので、それと同じかな、と。

2014-10-15 11:36:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

多分火薬の事をその色から『錆』と呼んで、転じて鉄砲や鉄砲衆の事をその名で呼ぶようになったんだと思うけど。

2017-04-22 23:47:14
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部藩だと鉄砲を『錆』と呼称する事があるんだけど、小野寺さん家にもその用例っぽいのがあって、これってもしかしてある程度広い地域で通用した独自の用例なのかしら?

2017-04-22 23:43:11
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、利直の書状に『錆(鉄砲)』ってあるな。この辺が錆(鉄砲)って言葉の南部における初出か? もっと前にもありそうだけど。

2015-01-04 22:55:34
帆船ハッカ @kotosakikotoko

鉄砲を『錆』と呼ぶ用例、南部と多分小野寺くらいしか見つけてないんだけども、他の地域にもあるのかしら?

2017-06-30 20:32:42