木付城籠城~石垣原合戦における細川家の動きと活躍メモ

勉強中で資料読込中。読んだもののまとめやそこから考えたことなどのメモ。細川勢だって活躍してた(と言いたい。)
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黒田@低速 @k_kinoto_roman

論文やら書物やらから総合して「木付城篭城戦〜石垣原合戦で松井・有吉勢がどんくらい活躍してたから」を出来るだけ明確にしたくて読み散らかしてるんですけど、最終的な「石垣原」の地ではやっぱり黒田勢の与力的扱いで終わってしまってるのかな…🤔いかんせん『黒田家譜』には松井有吉の詳細がほぼ

2020-02-09 22:59:18
黒田@低速 @k_kinoto_roman

ないっぽい感じ??細川側からの視点で読める第一級史料がまず松井文庫にあって、それらは木付篭城前後から石垣原合戦収束後まであるみたいなんだけど、結構俯瞰している文章という印象を受けたというか、これだけやりました!みたいなのが首取ったよリストだけであとは状況報告…っぽいんだよな…

2020-02-09 23:00:55
黒田@低速 @k_kinoto_roman

そこはなんて言うか、松井有吉からしてみれば、いかにして細川の飛び地である木付を死守し(ここを与えたのはそもそも家康)また周囲を西軍派に囲まれている中で徳川方としての態度を意地でも貫き通すかが肝要だったんだろうから、自分たちの戦勝報告より、黒田・加藤勢を含めた九州での動きを正確に

2020-02-09 23:03:09
黒田@低速 @k_kinoto_roman

忠興のもとまで届けるか、そのことが第一だったのでは?とは思う…🤔さっき言った首取ったよリストは、細川勢のうち誰が何個首を取ったかってやつがまずあって、康之は首二つ、有吉は首一つとか、書いてあったはず。これ、石垣原っていうか木付での話だったかな…だめだ読み直さないと…

2020-02-09 23:05:57
黒田@低速 @k_kinoto_roman

あともう一つ、『大友義統衆討死交名』というのがあって、これは合戦当時に松井有吉両名が、忠興に石垣原合戦の結果報告をするために記録したもので、合戦で討死した大友方54人の名前が書かれている。『黒田家譜』には合戦翌日の9月14日に実相寺山で、首実験をしたという記録があるから、おそらく

2020-02-09 23:09:22
黒田@低速 @k_kinoto_roman

そこで明らかになった者たちの名前を書き連ねたのではないだろうか?首実験には松井有吉両名もいたと思う。(だいたい木付への救援約束は如水と忠興の間で決まっていたことで、康之も頻繁に如水と連絡を取り合っていたわけだし)討死リストの先頭は「吉弘加兵衛」から始まり、宗像掃部、木邊左今 と

2020-02-09 23:11:57
黒田@低速 @k_kinoto_roman

続いていく。最後に 「都合五捨四人かしらふん、 右之外、かしらふんの者 ておい八十人計御」 とあるから、かぶと首が54人、それ以外合わせて80人あまり、と言ったところかしら?この80人くらい、は合戦後に松井有吉が合戦の様子を報告するために記した書状の内容とも一致する。

2020-02-09 23:16:18
黒田@低速 @k_kinoto_roman

かべえくん、いろいろあって、いとこの家で2000石で抱えてもらって、なんとか東軍でやり直そうとしたのに、旧主についてっちゃったの、何読んでも美談にされててかわいいとおもう

2020-02-09 23:18:31
黒田@低速 @k_kinoto_roman

つ〜か、統虎のところで雇ってもらってたのに統虎は西軍につくし、その時点で義乗くんは江戸方にいたからそっちつくね、って言って立花を出てったんだろうか…などと思うと、切ないものもあり、統虎の心やっぱり広いなと思うものもあったり…山口で義統くんに会ってどうしうもなくて味方しちゃったり…

2020-02-09 23:20:11
黒田@低速 @k_kinoto_roman

本日読んだ論文のメモ。『大分県地方史』(第一八六号)より『「石垣原合戦」の実像を探る』三重野 勝人 氏

2020-02-12 22:26:30
黒田@低速 @k_kinoto_roman

・合戦そのものに限らず、そこに至るまでの大友義統の足跡なども、出典・史料によって記録、記述に誤差がある。 ・秀吉により大友氏改易となった後の処分について →義統は毛利輝元預け(山口本国寺に幽閉、出家し宗厳と改名)のちに佐竹義宣預けとなる。

2020-02-12 22:30:59
黒田@低速 @k_kinoto_roman

→嫡子である義乗は加藤清正預り、後に徳川家康(江戸)預りとなる。 →家臣団は黒田孝高(官兵衛/如水)、長政親子を中心に数名の大名預かりとなる。 →吉弘統幸は黒田孝高の元にいたが、その後従兄弟である立花統虎(宗茂)を頼って知行2000石を得る。

2020-02-12 22:32:52
黒田@低速 @k_kinoto_roman

大友勢の進行ルートは残されている史料などを照らし合わせると概ね変わらず残されているっぽい。山口より出発した大友勢は船で豊後の浜脇浦という場所から上陸、9月9日には立石という場所に入って陣を敷いている。『石垣原合戦覚』(古屋文書)によれば義統は「本陣立石邑古屋園ニ有合之宅を陣屋トス」

2020-02-12 22:37:47
黒田@低速 @k_kinoto_roman

「本陣は立石村の古屋園に有り合せの家を陣屋とした」でいいのかな直訳…🤔同書はさらに「吉弘嘉兵衛 同村坂本ト云ニ陣ヲ居 即 有合之農家ヲ陣家トス」、「宗像掃部者 同村御堂ノ原ト云ニ陣ヲ居 是茂有合之農家ヲ陣トス」 吉弘嘉兵衛統幸と宗像掃部の両名は最後まで義統に付き従い、石垣原合戦

2020-02-12 22:42:22
黒田@低速 @k_kinoto_roman

にて討死した大友方の勇士として名高い。彼らは義統と同じ立石村の中にそれぞれ陣を展開していたらしい。史料によって現在の位置でおおよそのところは割り出せてるらしく、それらが現在古戦場跡地、陣屋跡地などとして史跡指定表示が建てられている。

2020-02-12 22:44:11
黒田@低速 @k_kinoto_roman

んで、大友勢のこの布陣は現在の位置で調べてみると高台にあたり、実相寺山・角殿山〜豊前街道内陸路線、豊前街道海沿いの路線も一望できるとあって戦術的にかなり有利な地の利を取っていたのでは?という印象。 抜粋「これから見ると立石布陣は、事前に豊後の旧臣とも緊密な連絡を取り、持久戦をも

2020-02-12 22:51:06
黒田@低速 @k_kinoto_roman

視野に入れた戦略的な配置であったとも考えられる。」 しかし別府に到着してからわずか数日で合戦に至ってるところから兵力の集結には限界があったのではないかとしていて、わたしもこれは思う。そうでなくても豊前〜豊後の情勢は①旗色を明らかにせず日和ってる連中、②豊臣方と明言している連中、

2020-02-12 22:53:20
黒田@低速 @k_kinoto_roman

③豊方と言いつつ動かない連中 などいくつかに分かれていて、はっきりと東軍(徳川方)としていたのは木付城の細川勢のみだったらしい。中津には黒田如水の軍勢が迫ってきている。義統は豊方から木付城を足掛かりとして得ることを命じられていたのか(そう取れる文が『松井文書』にある)

2020-02-12 22:56:15
黒田@低速 @k_kinoto_roman

義統の西軍味方の流れには諸説あるのだが、最初に挙げたように彼自身と嫡子とがそれぞれ別に預かりとなった上で毛利輝元および石田三成(佐竹義宣は三成と仲が良かった)によってお家再興の切っ掛けを持ちかけられたからとか、大阪方に取られた側室と幼い子供のためにとか諸説あるんだが、時節と状態を

2020-02-12 23:04:51
黒田@低速 @k_kinoto_roman

鑑みれば義統が西軍へ、息子の義乗は東軍へと分かれておいて保険をかけるのはごく自然なことではないか、という意見を見て私はこれを推したいというか、確かに理由としては自然だろうなと思った。どこの家もぶっちゃけやってたし…(忠興ですら興秋が大阪方へ付いたのを見送ったのは万が一の為だとか、

2020-02-12 23:06:55
黒田@低速 @k_kinoto_roman

実のところ興秋に大阪へつけと命じていた(忠興なのか幽斎なのかわからんが)という説もあるので、考え方としてはやはり万が一の旗色と流動的な情勢の中ではありえた話とも思う)

2020-02-12 23:07:55
黒田@低速 @k_kinoto_roman

この前も呟いたけど、松井・有吉が忠興に向けて送ってる書状の内容の詳しさ、ほんとなんなんだろうな…(仕事ができる家老たち…)あとキレ気味の松井康之の下りは「返答に及ばずなけ返し、重ねて使いを越され候らはば、首を切るべき由申」す、ってところで超意訳すると「返事するまでもなく(城の

2020-02-12 23:12:55
黒田@低速 @k_kinoto_roman

明け渡し要求の手紙を)投げ返してもう一度使いを寄越したら首を掻っ切るからそのつもりでいろ」ですね!

2020-02-12 23:13:39
黒田@低速 @k_kinoto_roman

…って言っておきました、って上司への手紙に書いちゃうの、やっぱり、細川だよなあ(しみじみ)杵築城には領内の庄屋や頭百姓らを人質として城内に拘束するとともに、城の防備を固めて大友方の襲撃に備えていた。この辺りは春くらいから既に忠興、如水両名の間で話し合いが行われていて、豊後における

2020-02-12 23:17:43
黒田@低速 @k_kinoto_roman

対応策は練られていたものと考えられる。人質をとったのは旧領大友氏の立石布陣に呼応して近隣の民百姓が助勢せることを恐れた松井らが、加藤清正からの書状にあった助言もあって先手を打ったものとされている。

2020-02-12 23:19:32
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