木付城籠城~石垣原合戦における細川家の動きと活躍メモ

勉強中で資料読込中。読んだもののまとめやそこから考えたことなどのメモ。細川勢だって活躍してた(と言いたい。)
3
そもそも「石垣原の戦い」とは

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。

ウィキペディア

黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

メモ)実相寺山周辺石垣原にて豊前黒田官兵衛(如水)と豊後大友義統が対峙 とあるけど、ここに細川家の松井康之以下、松井家家臣たちや有吉立行なども参戦しており奮闘。大友氏の家臣・吉弘統幸が戦死しているが吉弘隊と直接ぶつかったのは杵築から防衛戦を強いられていた松井勢以下であり、

2020-01-21 10:28:07
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

山から麓にかけて混戦が続いたと見られる。松井康之は有吉立行と共に先陣を切って出ようとするが魚住市正に「大将なんだから上で座ってろ!」と嗜められて戦況把握のためにギリギリまで待機。大友・吉弘勢が攻めかかってきた頃合いを見て山上と横から下知を下して突進。吉弘加兵衛、宗像掃部討死。

2020-01-21 10:32:52
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

天候は雨、大友軍大将である大友義統は、黒田家重臣母里太兵衛を頼って降参(※母里太兵衛は義統の妹婿)牛の刻から酉の刻まで都合三度の駆け引き戦闘。

2020-01-21 10:40:26
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

大友・吉弘軍と康之が率いる軍はかなり接戦して最後の戦をしたんじゃないかなこれは…ちょっとちょっと、黒田軍、この前にちょろっと出てきたりしただけで結果的に吉弘軍に追い返されたりしてませんか?ンン???(細川過激派)これが知名度 これが知名度…(細川過激派)

2020-01-21 10:52:22
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

結論:松井康之めちゃくちゃすごいし、当然他の細川家臣たちもすごいし、松井家に仕えていた人たちもめちゃくちゃすごい働いたからやっぱすげえや!

2020-01-21 10:52:59
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

松井康之を簡単に説明すると、戦国のスーパーマルチメディアチート系大名に使える戦国のスーパーマルチスキル搭載執事系チート筆頭家老です。

2020-01-23 21:04:57
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

すごいプレゼン下手なんだけど細川家筆頭家老の松井康之が凄いってことが言いたくてちょっと箇条書きにしたから見てください!!!!!!(字、読める……???) pic.twitter.com/nmsfXOOUqG

2020-01-25 23:17:20
拡大
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

昨日かいた松井康之のここがすごいぞプレゼン、石垣原のことは書かなかったんですけど私の中で言葉がまとまってない(説明がド下手くそ)のであえて書いてないんですけど 多分めちゃくそ長くなりそうだし こう 分かりやすくしたいんだ まずそこにあるまでの流れとか 分かりやすい例えが必要大事

2020-01-26 18:22:22
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

大友と黒田のことも書かなきゃいけないからね…私は両家どちらも好きなんですけど、細川のこと書いてると、こう、つい、敵対心が出てくるので(?)失礼にならないように言葉足らずにならんように…こう…うまく松井の活躍を書きたいんですわ!!!!!!今度ね

2020-01-26 18:23:28
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

最後の吉弘一族代表を屠ったのは細川家の松井勢以下でしょ……????????(小声)いやもっと多角的に検証が必要だ 黒田家の資料も取り寄せねば ていうか吉弘とたちばなの資料も必要だ 総合的に判断して最終的に私が「松井つぇええええ」って叫ぶ未来があるはず

2020-01-30 13:22:53
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

流れはわかってるけど詳しい陣立てとか陣形とか隊列の流れを把握したい……陣地後にいきたい……大分……ウググググ(石垣原)黒田勢だけでやってたわけではないんだし……後から来た……ど、どうして松井(細川)の名前が消えちゃう事が多いんだろうか……ネームバリュー???(ぐるぐる目)

2020-02-05 16:32:08
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

メモ) 細川忠興の所領地(飛び地)である豊後杵築の杵築城を守るのは細川家臣である松井康之以下譜代の家臣たち→大阪方より使者が来て城を明け渡すように要求→キレた松井が突っぱねる→忠興から言いつけられていたこともあり黒田如水や加藤清正の支援を頼りながら籠城戦開始

2020-02-05 16:41:10
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

西軍「杵築城明け渡せよ!」→松井康之「嫌です。ていうかこんな小さい城一つになんなんだよ…」→西につけよってお手紙バンバンくる→使者が来て手紙渡して更にとく→松井康之、手紙を投げ返して「また使者が来たら次は殺す」

2020-02-05 20:49:26
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

黒田勢の援軍の第一部隊が先に来て、軍議をやるんだけど康之の言い分「私はここで如水殿をお待ちすると約束しました」黒田勢「敵が下がっていくのにみすみす逃すと?!打って出ましょう!」→引き止めたけど黒田勢の先方はさっさと出てしまう→仕方なく追いかけて追いつく→「城でお願いしたけど聞き

2020-02-05 21:01:16
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

入れてもらえず、しかもここまでは細川家の領分だから私が案内すると言ったのにそれも聞き入れてもらえず、納得できない。ここから先は我々が先頭で進むので後から来てください💢」→黒田勢「せっかくここまで来たのに!苦労してここまで来たんだから下がるわけにはいかない」→康之「うるせぇ〜!💢」

2020-02-05 21:03:11
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

別府から杵築城、遠くない???????こんなに距離あんの?????マジで言ってる???????大分に杵築城って2箇所あるわけじゃないよね?????????

2020-02-06 12:36:26
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

drive.google.com/open?id=11Tk3S… ぐーぐるまっぷでぽちぽちと石垣原の戦い周辺のルートなどを整頓中…🤔🤔🤔木付(杵築)城から別府、距離あるね?????何度も言う

2020-02-06 14:21:15
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

ちょっと調べながらやってるからちょいちょい修正が入る前提というか予定です🤔

2020-02-06 14:54:35
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

個人的メモ) 木付城 勝山城、臥牛城とも呼ばれる連郭式平山城。三方を川と海に囲まれた天然の要害地。1393年頃に築城され、代々木付氏の居城となる。のち、木付氏は大友氏の一族となる。

2020-02-06 14:54:52
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

戸次川の戦いに勝利した島津家久が庄内にて大友屋敷を襲った後、家臣である新納忠元の大軍が木付城に攻め寄せ、木付氏は二ヶ月に渡る籠城を展開。九州攻めのため豊臣秀吉軍が九州へ上陸してくると共に新納軍が撤退、それを追う形で城から追撃を仕掛け、勝利を納めたため、勝山城と呼ぶ、とも。

2020-02-06 15:02:51
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

木付氏はその後も大友氏に仕え、朝鮮出兵も経験するがどうやら現地で木付氏嫡男であった木付直清が討ち死に。その後更に大友家が改易処分となり、当主であった木付統直は帰国するものの現在の関門海峡で入水自殺。このようにして残った木付氏も大友氏衰退に依って一族滅亡。

2020-02-06 15:03:17
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

1595年前田玄以が入城→丹波の亀岡城へ移る 一時的に宮部継潤を経て、1596年杉原長房が入城。 1598年に杉原長房が但馬の豊岡城へ移り、1599年に丹後の宮津城主であった細川忠興が飛び地として豊後木付を拝領し、木付城を得る。

2020-02-06 15:03:31
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

忠興は家老である松井康之と有吉立行を派遣し、城の受け取りと領内経営を指示。同年の春には忠興本人も木付を視察し、城の改修指示などを行う。日本海側に面した丹後と違い、温暖で雪も降らないらしいと聞いている豊後の土地に、忠興も期待を寄せていたのでは。(農作物や治水の面などから)

2020-02-06 15:04:39
黒田きのと@原稿中 @k_kinoto_roman

やっぱり、助けに来た黒田先発部隊に感謝はしつつも、勝手に動かれてキレ気味の松井康之、いいと思う(杵築城の戦い)

2020-02-07 17:48:18
残りを読む(136)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?