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嫌な記憶が蘇る。 燃える馬車の家。巨躯の車牽きと瘤と疣だらけの占い女の骸。 歯をかちかちと鳴らす少年の腕の中で獣がうごめき、するりとまた抜け出て石畳に降り立つと、ちぎれ尻尾でとんと相棒の使い込んだ靴を叩く。
2020-05-17 22:53:28はっと我に返った童児があたりをもう一度見渡すと、腕章に描かれているのは「忠実なるもの」を示す風鷲ではなく、見慣れない獣だった。いや普段から目を通している「妖精の書」の挿絵のひとつで目にした覚えがある。 「あざ…らし?」
2020-05-17 22:55:51流線形と円筒形が組み合わさったような、とても動物らしくない輪郭に、二枚の鰭を備えている。宙で回転し、滴のようなものを四方に振りまいているような意匠だ。赤い色なので血だろうか。 「西の島の至高の歌声よ!」 「我らが胸に今も響く谺の谺!」 「辿りて永遠(とわ)の美に達さん!」
2020-05-17 22:58:38巡礼らしき老若男女が、いろいろな国の言葉で話している。解るものもあれば、解らないものもある。 海豹の腕章をつけた男女だけは冷静さを失っておらず、先へ進むにつれ徐々に増えていく人波を淡々と捌いている。 「えー風雲あざらし祭りは本日ではなく“明日”からです。船着き場での徹夜は禁止です」
2020-05-17 23:00:37さまざまな言葉で同じ説明を繰り返している。おかげでウィストにも聞き取れた。 「列を乱さないで下さい!乱すと進まなくなりまーすこちらは駅前を出るための列です!」 「宿をとっていない方の相談は案内所で受け付けています!地図は目録にあります!目録を買っていない方は…」
2020-05-17 23:03:15地図があれば欲しかった。幸い、学問の都で餞別に貰った旅費や、チノホシが集めてくれた砂金がある。少年はきょろきょろ見回して言葉の通じそうな、できるだけ危なくなさそうな人に話しかける。 「あの…目録ってなんですか」 「君初参加?誰かと一緒じゃないの?」 「はぇ…」
2020-05-17 23:05:17「誘導員さん!この子初参加で目録持ってないって!一人で来たって!」 ウィストが声をかけた巡礼が叫ぶと、腕章をつけた女が振り返る。 「お父さんかお母さんは一緒じゃないんですか?」 「はぇ…」 「それじゃあこちらを見て」 折りたたんだ紙を開いてくれる。 「ここが案内所。ここで目録を」
2020-05-17 23:09:08「目録って…何でしょうか…」 「風雲あざらし祭りに出展する各支部の芸の概要と開催場所が書いてあります」 「風雲…あざらし…祭り…」
2020-05-17 23:10:56何やらこの海の近くの街では奇祭が開かれるらしい。 とりあえず案内所とやらを探して歩き始める。 すぐ迷った。ウィストの欠点の一つが迷子だ。 「…うう…カミツキ…どこ」 猫ともはぐれた。
2020-05-17 23:12:17周囲では時々奇声を発した若い巡礼が、腕章をつけた誘導員に騒がないようにと注意を受けているが、まず誘導員の声がすごい大きくうるさい。 ほかの巡礼も皆あちこちで集まって早口で喋ったり、乙女やあざらしの偶像やお守りなどを見せ合ったり、小刻みに奇妙な身振りをしたりしている。
2020-05-17 23:15:23会話の内容はまず意味が解らない。 そもそも異国の言葉が多いのだが、たまたま言葉が通じても何を論じているのがさっぱり掴めない。 「だからあざらしは二匹いたっつう、二匹派の解釈まではアリだったの。デモイテル×ナミっていうのが完全に自然なのに、なぜかナミ×イテルみたいなこというやつがね」
2020-05-17 23:16:23「あ、俺ナミイテありだわ」 「まじかあ…じゃあ縁切る」 「え?まじ?」 「いや縁切るよそれは。ナミイテはないでしょ。そもそも原典にないから」 「それいったらイテナミもなくない?」 「は?」
2020-05-17 23:17:31とにかく皆すごく真剣で怖い。あと急に怒り出したりすごい笑い出したり、感情の起伏が異常に激しくて怖い。全員が酔っ払いか何かのよう。 「つかさ、ふんふんふんふーん♪ふん、のとこで手横に出す訳じゃん」 「いや、ふんふんふんふーんふん♪でいいんだって。錐もみ回転しながら血を噴くんだし」
2020-05-17 23:20:44「白銀后が男だったのはもう当時の人が書いてて」 「いやだからそれが偽書っつーことでしょ」 「じゃあ逆に女だったらあの低音どう表現したのかって話になる訳じゃん」 「だからそれは歌唱と演奏の楽譜をそれぞれ別にしてて」 「まず楽譜がそもそも残ってない訳じゃん?再現な訳じゃん」
2020-05-17 23:23:34ウィストは次第に気分が悪くなってきた。 学問の都で紹介のあった、指輪の手がかりを教えてくれるかもしれない人物に遭わねばならないが、島の灯台に住んでいて、船に乗らねばならない。この街とあともっと大きな貿易港のどちらかから便が出ているが、より小さく穏やかそうな方を選んだつもりだった。
2020-05-17 23:26:46「どけどけ!」 炎の模様をぬいとった鉢巻きを付けた半裸の逞しい男達が、御輿を担ぎながら雑踏を押し分けるようにして進んでくる。 少年はなるたけ遠ざかろうとしたが、肉の壁にぶつかってうまく身動きができない。 「モエルナミ派だよ」 「年々乱暴になってくな」
2020-05-17 23:28:59よく解らないが怖いからかかわらないでおこうと、念のためどんな連中か確かめるため一瞥したところで、頭巾の仔はぽかんと口を開けた。 半裸の逞しい男達が担ぐ御輿には、ぼろ雑巾のような塊がのっている。どことなく海豹を思わせる形状の、もとはぬいぐるみだったろう何かだ。ひどく懐かしい。
2020-05-17 23:31:09ひどく汚れているうえにどこかぬれててかっている風でもある。 「何だあれ」 「幾らなんでお冒涜だろ…」 周囲の反応はかんばしくない。ウィストはまた主義に反してそばの大人に話しかけた。 「あの、あれなんですか?」
2020-05-17 23:32:32「初参加?あれはモエルナミ派、白銀后の使いあざらしは、海の波をも凍てつかせる氷の化身というのが通説だけど、モエルナミ派は、海の波をも燃え上がらせる炎の化身だと主張してる。その正しさを訴えるために毎回、油をしみこませたあざらしのはりぼてに火薬を詰め、洋上に打ち出し、爆発四散させる」
2020-05-17 23:34:44「爆発…四散!?」 「毎年手の込んだはりぼてを作って派手に爆発四散させるから、つい皆見ちゃうんだよなあ…そもそも、俺はあざらしじゃなくて、あざらしによく似た蛸だったと思ってるけど」 「?!」 「蛸はほら歌えないけど感受性は高いからさ」
2020-05-17 23:36:12親切な巡礼はさらに早口に教えてくれる。 「だけど今年のはりぼてはひどいな。はりぼてっていうよりゴミだろ。白銀后の御使いに対する敬意に欠けてるよ。まあその分爆発四散は期待できそうだけど」
2020-05-17 23:38:09ウィストは脂汗をかきながら、ひょっとしたら竜に襲われたり、死体の群に追いかけ回されたりするより、この街に居続ける方がずっと大変かもしれないと考え始めていた。
2020-05-17 23:40:01次回の話