中山信安(脩輔)の話・改

あれから2年、いろいろ新しいことがわかったので改めて中山信安の生涯についてまとめます。
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銅折葉 @domioriha

他にも、佐渡に寄港した英国船の乗組員が乳牛を欲したため(冬至の日本人としては牛は重機のような農業・工業労働力であった)、島内を探して牛を送って事なきを得たというような記録も残っています。いずれにせよ、信安の仕事はどれも海外の国々と直接接するものであったことがわかります。

2020-05-31 21:56:29
銅折葉 @domioriha

さて。そんな感じでやってきた慶応4年の正月。この年の日本海は大荒れで、年末から1月にかけてほとんど船の往復ができなかったと記録されています。 そんなわけで暢気に新年を迎えた佐渡でしたが、2月に新潟からの船がもたらした報せで事態は一変します。

2020-05-31 21:58:04
銅折葉 @domioriha

慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いにより幕府軍が敗退。2月には徳川慶喜が寛永寺に謹慎して恭順を示すという一大事になっており、佐渡はいきなりこれらの状況を伝えられたことで大混乱に陥ります。そうこうしてるうちに3月に江戸城は無血開城されたという報せも届き、徳川幕府は完全に消滅しました。

2020-05-31 22:02:18
銅折葉 @domioriha

佐渡は天領、つまり幕府直轄の土地なわけですが、佐渡奉行所からしてみると年が明けてみたら幕府が無くなっちゃってたことになるわけです。幕府がないなら幕府の役人である奉行も意味を失うわけで、佐渡や金山を統治する機構がまるっと意味を失ってしまった事に等しい一大事。

2020-05-31 22:03:53
銅折葉 @domioriha

この混乱に拍車をかけるように、佐渡には官軍と奥羽の会津藩からそれぞれに、数日と間を置かず使者がやってきます。どちらも要求は同じで、自分たちこそが正当なる日本の政府なので、佐渡はその支配下に入り、産出した金銀を我らに寄越せ、もしも向こうに味方するなら容赦しないーーというもの。

2020-05-31 22:06:40
銅折葉 @domioriha

官軍・旧幕軍の双方から詰め寄られる一大事に当たり、信安ら奉行所は協議の上、1つの決断を下します。自分たちは幕府の組織であり、命令がない以上は従来の任務を続けるのみ、ちょうど先日、佐渡で取れた金銀の全ては海を渡って江戸に送ったばかり。いまは砂金一粒残っていないーーと。

2020-05-31 22:09:22
銅折葉 @domioriha

この時、江戸に向かって金銀を送ったという書類はあるのですが、その送付日は使者が訪れたその日。しかも江戸でそれを受け取ったという担当者の名前はどこを探しても見つかりません。(これは単に私の調査不足の可能性がありますが……

2020-05-31 22:11:06
銅折葉 @domioriha

そして、明治33年に叙勲された信安の経歴には、明治政府に佐渡の金銀を引き渡した功績を評価する言葉が記されているので、おそらくこれは信安ら一世一代をかけた大博打であったと思われます。

2020-05-31 22:12:42
銅折葉 @domioriha

ともあれ、この報告によって双方の使者にはお引き取りを願った佐渡奉行所ですが、当の奉行である鈴木重嶺は状況を鑑みて江戸に向かい進退伺いをすると言って佐渡を去ってしまいます。奉行所には後事を託された組頭の信安が残される事になりました。

2020-05-31 22:14:25
銅折葉 @domioriha

鈴木奉行のこの行動、無責任にも思えますが、佐渡奉行という幕府の責任者が残っていない方が、奉行所がうまく動けることを見越してのものとも言え、評価は難しそうな感はあります。

2020-05-31 22:16:10
銅折葉 @domioriha

このとき信安の妻の幸子も共に海を渡り、江戸へと帰っています。その後幸子は人を使って信安の元へ江戸の状況を何度も報告させており、奉行所の行動の助けになったであろうことが窺えます。

2020-05-31 22:16:53
銅折葉 @domioriha

そして、鈴木奉行と入れ替わりに佐渡にやって来た者たちがいました、会津藩士を名乗る一団です。彼等は信安らが佐渡は幕府の命令に従って行動したという話を元に、自分たちが佐渡に駐在して官軍の横暴から佐渡を守ってやると称し、島内に居着くことになりました。

2020-05-31 22:18:17
銅折葉 @domioriha

横暴も働いた彼等をとりまとめ、連絡役をかって出たのが江戸からきた佐藤六郎という侍でした。彼は先々代の奉行と共に佐渡を訪れており、いったんは離島したのですが再び戻ってきて会津藩士の面倒を見始めたそうです。他にも佐渡の医者の息子であった大熊忠順といった面々もこれに加わりました。

2020-05-31 22:20:48
銅折葉 @domioriha

しかし、彼等は会津藩士を名乗っていたものの、その実体は水戸の浪士であったようです。佐渡は天領であるため幕府の役人が多数滞在しており、訛りが全然違うことですぐにバレてしまったのだとか。かく言う信安も水戸とは深い繋がりがあるため、看破は容易だったと思われます。

2020-05-31 22:22:28
銅折葉 @domioriha

どうあれ、戦う気満々の侍たちを佐渡に滞在させておいてはそれこそ戦争の要因になりかねないと判断した信安は、一計を案じる形で奇策に打って出ます。それは、佐渡島内の侍や役人達をあつめ、官軍に対抗するための部隊を結成することでした。

2020-05-31 22:24:26
銅折葉 @domioriha

信安自身が隊長となって結成された部隊の名は迅雷隊。佐渡島内の上は40代、若きは16歳のメンバーを集めた総勢150名は血判を押して、幕府への恩のため佐渡を守らんと決起したのです。

2020-05-31 22:28:07
銅折葉 @domioriha

ーーというのは表向き。実際は、信安は官軍にも旧幕軍にもどちらにも与することなく、局外中立を貫くつもりでいました。迅雷隊の組織は、島内の侍たちが血気に逸って迂闊な行動を起こさないようにすることと、佐渡にはこのような兵力があることを示して「会津藩士」達を立ち退かせることが目的でした。

2020-05-31 22:30:07
銅折葉 @domioriha

この努力は実り、ほどなく島内から「会津藩士」たちは退去します。ただ、この後も信安達が官軍と戦うため、あるいは外国船を追い払うための行動に出ないことから、迅雷隊内部からも信安を怪しむ声が出て、一時は山西百太郎や長谷川清次郎らによる暗殺騒ぎも起きたとされています。

2020-05-31 22:32:14
銅折葉 @domioriha

その間にも信安達は次々に手を打ち、島内の住民達が早まった行動をしないこと、統治は奉行所が引き続き行うことの通達を行うと共に、広間役の井上太蔵や目付役の岩間郁蔵を幕府に派遣して佐渡統治を引き継いで行うことを確認したり、その一方で官軍側にも使者を派遣し、連絡を取っています。

2020-05-31 22:36:01
銅折葉 @domioriha

この時点で官軍、明治政府は佐渡裁判所の設置を決定しており(この当時の裁判所は行政府全ての役割を兼ねるもの)、信安らの陳情は、佐渡は遠島であり統治は大変だから、新しく統治のための総督を派遣するには及ばない、もし無理に行えば戦乱の原因になると申し立て、刺激を与えないよう伝えています。

2020-05-31 22:38:01
銅折葉 @domioriha

さて、これらの運動は無事実を結び、佐渡の統治はそのまま信安ら旧佐渡奉行所の役人達に引き継がれることになりました。そうこうしている間に新潟でも戊辰戦争の戦線が広がっていり、信安らの陳情はせめてこれらの戦乱が収まるまではという点を述べ立てて、信頼を勝ち取ったようです。

2020-05-31 22:40:17
銅折葉 @domioriha

そしてこれらの工作が続けられている最中の5月末。薩摩の軍艦である乾行丸と丁卯丸が佐渡の小木港に入港し、艦長である北郷久信は信安を呼び出しました。すわいよいよ官軍の侵略か、迅雷隊が戦うときかと配下が動揺する中、信安はこれを制し、わずかな供だけを連れて急行し、艦上で会見。

2020-05-31 22:43:39
銅折葉 @domioriha

この時、信安は堂々とした受け答えで北郷の質問に答え、配下の薩摩藩士が斬りつけようとしたときも少しも動じた様子がなかったそうです。 またこの時、北郷は薩摩藩士となっていた嵯峨根良吉の事を話題に出し、信安がそれは自分の妻の兄であると答えたことで両者の距離は縮まったとされています。

2020-05-31 22:46:29
銅折葉 @domioriha

こうして佐渡の危機は去ったーーかに思われたのですが。 それから2ヶ月ほどあとの7月のこと。新潟占領のため小木港に立ち寄った官軍の軍艦に駆け込んだ者たちがいました。あの佐藤六郎、大熊忠順らの面々でした。

2020-05-31 22:52:31
銅折葉 @domioriha

彼等は佐渡島内の代表を名乗り、信安が佐渡を牛耳り民を虐げ、迅雷隊を率いて本土へ攻め込もうとしていると密訴を試みたのです。 無論これは根も葉もないデタラメであり、艦長は自分には訴えを裁く権限はないとして退けました。二人はなおも食い下がったため新潟まで連れて行かれることになりますが、

2020-05-31 22:55:43