中山信安(脩輔)の話・改

あれから2年、いろいろ新しいことがわかったので改めて中山信安の生涯についてまとめます。
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参考まとめ

まとめ 中山信安(修輔)の話。 幕末の佐渡奉行組頭をつとめ、佐渡に戦火が及ばぬよう奔走した中山信安(後に新治県令、茨城県令)の生涯に関して調べたことなどのまとめです。 14200 pv 38

銅折葉 @domioriha

これをつぶやいてからほぼ2年が経ち、新情報など絶望的だろうと思っていたところからずいぶん進展がありました。 twitter.com/domioriha/stat…

2020-05-31 16:38:47
銅折葉 @domioriha

佐渡勢の人にも聞きたいのですが幕末と明治維新の混乱の最中佐渡を戦乱から守った佐渡奉行組頭の中山信安(中山修輔)の資料を探しています。この人とマミゾウさんの話が書きたくて調べはじめて早1年半。そのものズバリ「中山信安」著:飯島竹雄という本があるらしいんですが影も形も見つからない。

2018-06-19 23:07:54
銅折葉 @domioriha

解ってる範囲でもう一回、幕末の佐渡を戦火から守った佐渡奉行組頭、中山信安(脩輔)の生涯についてざっくりとつぶやきます。

2020-05-31 20:55:06
銅折葉 @domioriha

生没年とざっとした経歴はwikipediaにあるのでそれを張るとして。ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD… 中山信安(旧名脩輔、修助、秀介、周助とも)は1832年(天保7年)生まれ。江戸徳川幕府の旗本である中山家1150石の8代目に当たります。中山家はいまの新橋駅近くの愛宕下に屋敷を構えていました。

2020-05-31 20:58:38
銅折葉 @domioriha

ただ、どうも彼の出自は旗本中山家のものではなく、元々は別の家の生まれだったものと思われます。佐渡年代記などによる組頭就任時の経歴によれば、水野主膳家来・川崎平蔵孫/川崎平五郎の子とされております。この水野主膳というのは愛知県岡崎市に知行を持っていた旗本水野家5000石のことで、

2020-05-31 21:02:04
銅折葉 @domioriha

あの天保の改革を行った水野忠邦の弟にあたる水野忠勧が治めていた時代です。信安の父とされる川崎平五郎はこの水野家の江戸藩邸の家人であり、祖父の川崎平蔵は水野家の江戸屋敷の家人の中で最も待遇の良い家老格であったことがわかりました。

2020-05-31 21:05:51
銅折葉 @domioriha

この水野家の江戸屋敷も愛宕下にあり、中山家とはすぐ斜め向かいに位置しています。信安自身の出自や幼少時の境遇については、まだ決定的な原資料がないのですが、当時から何かしらの交流があったのかもしれません。

2020-05-31 21:07:56
銅折葉 @domioriha

若き日の信安は、早い時期から開明的な師の元で学んでいたとされています。資料にもよってまちまちなのですが、まず大槻磐渓の門で学び、後に東條一堂、伊東玄朴、資料によっては東条琴台の元で教えを受けたなどとされています。また、千葉周作の門人であったとも書かれております。

2020-05-31 21:10:12
銅折葉 @domioriha

ここでは清河八郎と同門であったとも記されていて、当時の中山がどのような信条や立場であったかは明瞭ではありませんが、広く交流を持ち見聞を広めていたのではないかと思われます。(伊東玄朴は言うに及ばず、大槻磐渓なども早くから開国論などを唱えていました

2020-05-31 21:14:04
銅折葉 @domioriha

そして信安はこれらの師に学んだ後、大阪の適塾で緒方洪庵の元で、福澤諭吉や長与専斎、嵯峨根良吉らと共に学んでいるーーとされています。が、適塾の塾生名簿には信安の名前が見当たりません。 適塾の塾生は数が多く、名簿に載っていないが教えを受けたという人々も多数おります。

2020-05-31 21:17:06
銅折葉 @domioriha

それらの塾生の調査自体が1つの研究にもなっているんですけども、後年信安の養子になった尺秀三郎が自身の随筆に、適塾での福澤諭吉の様子などを離したエピソードが書かれており、また緒方洪庵を偲ぶ会などにも福澤らと共に参加しているので、塾生であったことにおそらく疑いはない。

2020-05-31 21:21:53
銅折葉 @domioriha

1つ可能性があるとすれば、塾生名簿に名前のある深川御徒士組屋敷・中山桂輔倅の中山八郎という人物が、信安であるというもの。中山八郎はここにしか名前の出てこない人物でなのですが、以後の足跡を調べる限り、信安と同一人物であったとしても矛盾がない。現状はこれ以上の情報はありません。

2020-05-31 21:24:35
銅折葉 @domioriha

ともあれ、八郎=信安であったとして話を進めると、信安は適塾で1年ほど学んだ後、大野藩の洋学館へと転校しています。これに先立って洋学館へ向かっていたのが丹後国の医者の息子であった嵯峨根良吉(見龍、良起とも)という人物で。信安はこの嵯峨根良吉の妹、幸子とこの時期に結婚しています。

2020-05-31 21:26:47
銅折葉 @domioriha

嵯峨根良吉はこのあと長崎に遊学し、江戸で江川英龍の元で砲術を学び、さらに薩摩の開明館からスカウトを受けて薩摩藩士となったことで、妹の幸子も薩摩藩士の娘とされる資料がまま見られるのですが、これは明確に違うことが嵯峨根良吉を調べた郷土史家の方の研究で解っています。

2020-05-31 21:28:55
銅折葉 @domioriha

信安が佐渡組頭として幕府の要職に就いたとき、倒幕を掲げた「薩摩藩士の娘の」妻幸子を、幕府の職務遂行の妨げにならぬようにと離縁しようとした際、幸子は絶食して抗議し、信安は幕府に届け出、幕府もこれを認めたという話があるのですが、少なくとも幸子は薩摩とは直接関係ないわけです。

2020-05-31 21:32:48
銅折葉 @domioriha

さて、このあと「中山八郎」は親の大病を理由に洋学館を入学後20日ほどで退校します。そして信安(脩輔)の名前が初めて公的文書に確認できるのが、文久3年の2月。清河八郎が中心となって働きかけ、結成された浪士組の名簿の中に信安の名前があります。

2020-05-31 21:35:00
銅折葉 @domioriha

浪士組の名簿には後の新撰組となる近藤勇や土方歳三、沖田総司らの名前もあるわけですが、信安は浪士としてこれらの募集に加わったわけではなく、彼等を管理する幕府の役人として役職に就いたようです。 信安が浪士組の上洛に参加したかははっきりしません。まあ一緒に上洛したほうが夢があっていい。

2020-05-31 21:38:10
銅折葉 @domioriha

まあともあれ、浪士組が京都で分裂し、清河八郎と共に江戸に呼び戻され、残留した近藤らが新撰組となったのはご存じの通りです。 で、江戸に戻ってきた後、新徴組と改められた浪士組で、信安は再び調役という役職に任じられています。

2020-05-31 21:39:51
銅折葉 @domioriha

で。このとき清河八郎は麻布赤羽橋で佐々木只三郎らに暗殺されているのですが。 この時の実行犯として、「中山周助」なる人物の名前が記されている資料が複数あります。

2020-05-31 21:42:22
銅折葉 @domioriha

後年、佐渡政党史稿が纏められるとき、この中山周助なる人物は、後の佐渡奉行組頭の中山脩輔=信安なのかという問い合わせがなされており、そこでの回答は「はっきりしないけどたぶん同一人物じゃないかな……」というもの。 清河暗殺の顛末と共に、真相もまた闇の中です。

2020-05-31 21:43:49
銅折葉 @domioriha

そもそも「中山周助」が暗殺に加わったかも明確ではなく、現場近くに居ただけ、確認しただけ、逃げないように道を塞いだ、そもそも参加してなかった、色々と説があります。 信安が千葉周作の門人であったとするなら、剣の腕はそれなりに立ったのではないかと思われますが……。はてさて。

2020-05-31 21:45:35
銅折葉 @domioriha

かくして新徴組の管理をすることになった信安ですが、この間も色々あったことが最近になってわかり、1つは新徴組を脱して水戸天狗党の筑波山決起に参加した山田一郎が、幕府に自訴し処刑を待つ直前に川野健之助という少年を信安に預け後事を託していったというようなことがありました。

2020-05-31 21:47:30
銅折葉 @domioriha

余談ですが川野健之助は後に河野信義と名前を改め、信安が新治県令となったときに水戸裁判所に勤めています(信安の養子になったという話もあります)。 このあたりはいまほかの資料を調べているところで、なかなか面白い話がありますが今回は割愛。

2020-05-31 21:49:32
銅折葉 @domioriha

激動の文久3年から翌年の元治元年5月。信安は佐渡組頭として抜擢され、金山を擁する幕府の重要拠点である佐渡へと向かうことになります。妻である幸子を伴って赴任したようです。現地では同じく組頭の竹川竜之助らと共に、最後の佐渡奉行となった鈴木重嶺のもとで諸事を預かることになりました。

2020-05-31 21:52:33
銅折葉 @domioriha

慶応3年には日米和親条約で開港の決まっていた新潟港の補佐としての佐渡夷港(現在の両津港)の拡張工事などを指揮しています。新潟港は底が浅く、外国の船が入港できなかったため、佐渡の港を補助港として使うことが決まった事を受けての工事でした。

2020-05-31 21:54:23
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