映画『アメリカン・サイコ』 社会規範とアイデンティティをめぐる繊細なストーリー(ネタバレ有り)

メアリー・ハロン監督、クリスチャン・ベール主演作品『アメリカン・サイコ』についてのレビューです。 80年代の物質主義社会を背景に、エリートビジネスマンの壊れたシリアルキラーっぷりをブラックユーモアを交えて描いた作品。 虚実入り乱れる構成に隠された繊細なテーマを考察しました。  ※大いにネタバレを含みますので未見の方は注意
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狂猫病 @kyobyobyo2

映画『アメリカン・サイコ』は、いわゆる「信頼できない語り手」の手法が採用されている物語だ クリスチャン・ベール演じる主人公パトリック・ベイトマンの主観がかなりあやふやなものであり、現実と妄想の区別がつきにくくなっているので、初見の観客の多くは混乱する

2020-06-07 21:28:53
狂猫病 @kyobyobyo2

本作をめぐるレビューや批評の大半が「どこまでが『現実』で、どこからが『妄想』なのか」という点に費やされており、その構成やテーマについて触れられているものは驚くほどに少ない シンプルなストーリーでありながら、非常に繊細かつ普遍的なテーマを扱った本作の、「裏の一面」を見つめてみたい

2020-06-07 21:35:26
狂猫病 @kyobyobyo2

まずは物語の構成を分割してみよう 『アメリカン・サイコ』は、実質的な本編が約97分の作品だ 第一幕:オープニング レストラン(0分)~ 名刺バトル(20分) 第二幕前半:ホームレス殺害(20分)~ 探偵キンボールとの最初の面会(37分) ミッドポイント:娼婦たちとの3P(45分ごろ)

2020-06-07 21:44:50
狂猫病 @kyobyobyo2

第二幕後半:同僚ルイス・カラザースへの殺意(49分)~ 娼婦クリスティの殺害(76分) 第三幕:婚約者イヴリンとの別れ(76分)~ エンディング バーにて(97分) 三幕の境界はあまり明確でなく、ミッドポイントも印象的ではあるが物語上での役割はやや薄い 商業作品としては難解な部類だろう

2020-06-07 21:52:54
狂猫病 @kyobyobyo2

『アメリカン・サイコ』が主題として描いているものは、主人公パトリック・ベイトマンによる狂おしいまでの闘争だ 何を求めての闘争か? それはもちろん、アイデンティティ(=自己同一性、自分らしさ)である ベイトマンはこれを、自身の至上命題である「社会規範」と両立させようともがき続ける

2020-06-07 22:04:17
狂猫病 @kyobyobyo2

80年代の物質主義をモチーフとする本作の中で、「社会規範」は非常に歪んだ奇妙なものとして描かれている この描写は皮肉的なユーモアに満ちており、本来はスリラーであるはずの本作がブラック・コメディとしても受けとめられる要因になっている

2020-06-07 22:13:38
狂猫病 @kyobyobyo2

ベイトマンはハーバード経営大学院という最高の学歴に、父親が実質的に所有する大手証券会社勤務という最高の職業をもつ 鍛え上げた肉体を丹念なケアで磨き上げ、一分の隙もないブランドスーツで包み込む 予約も困難な人気レストランで食事をし、流行の音楽を聞き、レンタルビデオはきっちりと返却する

2020-06-07 22:20:03
狂猫病 @kyobyobyo2

こうした価値観はベイトマンほど徹底的ではないにしろ彼の周囲も同様であり、その共有状態をベイトマンは「fit in(適応)」と呼んでいる 彼自身、実質的な仕事は何もしていない会社など辞めてしまっても何の不都合もないのだが、この「社会規範」に「適応」し続けるため、毎日の勤務を続けている

2020-06-07 22:27:45
狂猫病 @kyobyobyo2

偏執的なまでの肉体鍛錬も、音楽やブランド品も、同僚たちとの食事やナイトクラブでの夜遊び、さらには麻薬ですらも、ベイトマンにとっての「社会規範」なのだ けっして虚栄心によるものではない ある意味でベイトマンは求道的であり、禁欲的であるとすら言える

2020-06-07 22:35:55
狂猫病 @kyobyobyo2

しかし「一切の感情がない」ベイトマンも、自身に「欲望と嫌悪」が存在することははっきりと自覚している 実際に、狂気的な社会規範への適応のなかでベイトマンは確実に抑圧されている その抑圧による歪みは、遅刻癖、精神安定剤、レンタルビデオ返却への執着などの形をとって作中で表現されている

2020-06-07 22:44:05
狂猫病 @kyobyobyo2

ベイトマンが猟奇的な暴力、さらには殺人を「趣味」とするのも、プライベートまでを支配しようとする「社会規範」から逃れるための方策であったはずだ 社会規範の権化がもつ「殺人者」としての裏の顔、それがベイトマンの固有性であり、つまりはアイデンティティだ

2020-06-07 22:53:48
狂猫病 @kyobyobyo2

パトリック・ベイトマンは自らの二面性の中に、真のアイデンティティを見出そうとする pic.twitter.com/j18LEk9Acz

2020-06-08 04:11:53
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狂猫病 @kyobyobyo2

物語上でベイトマンの安定状態を突き崩すきっかけとなるのが、同僚ポール・アレンの殺害だ この殺害の直接的な契機は、ポールや同僚との名刺バトルにおける自身の敗北をベイトマンが自覚したことと、ポールがベイトマンを別の同僚と誤認していたことだ 一見して不可解な動機ではある

2020-06-07 23:02:21
狂猫病 @kyobyobyo2

まず名刺バトルだが、腕時計でもスーツでもなく、名刺であるという点に注目したい 似たようなブランド品、スーツ、境遇をもつ若い社員たちにとって、自身の名前が刻まれたその紙片は重要な意味をもつ 自分の分身そのものであると言ってもいいだろう

2020-06-07 23:08:26
狂猫病 @kyobyobyo2

名刺バトルではベイトマンがそれなりの審美眼でもって自身の敗北を認識しているように思われるかもしれないが、実際にはそうではない ベイトマンには一切の審美眼が備わっていない これは同僚たちも同様だが、彼らが判断基準としているのは人気であるかどうか、高級であるかどうかだけだ

2020-06-07 23:12:54
狂猫病 @kyobyobyo2

ベイトマンが敗北を悟るのは、単純にポールの名刺が自分のものより明らかに高級であったからだ そしてこの優越性は、ベイトマンが予約できない高級レストラン「ドーシア」をポールが容易に予約していることを匂わせることで決定的となる 自身の完全上位互換、ベイトマンはポールをそのように認識した

2020-06-07 23:17:46
狂猫病 @kyobyobyo2

ポールがベイトマンを他の同僚と誤認したことも、この「互換性」をベイトマンにはっきりと意識させたはずだ 自身の「唯一性」を否定されたベイトマンは、その誤認を逆に利用することでポールの排除を試みる 非現実的なトリックだが、この誤認だらけの作品世界ではこの上なく有効に機能した

2020-06-07 23:22:54
狂猫病 @kyobyobyo2

しかしこの他者との誤認を利用したトリックは、ベイトマンのアイデンティティを強烈に揺さぶり始める ベイトマンがポール・アレンと名乗り、ブロンドの娼婦二人との乱交を(そしておそらく猟奇的な行為も)ビデオに収めるのはこの動揺への反動だ 彼はビデオを借りる側でなく、作る側になろうとする

2020-06-07 23:30:56
狂猫病 @kyobyobyo2

物語後半からは、ベイトマンのアイデンティティが敗北していく様子が描かれる 同僚ルイス・カラザースと秘書ジーンの殺害の失敗は、彼自身が完全に見下し軽蔑していた存在から、予想外の好意を向けられたことへの戸惑いによるものだ

2020-06-07 23:39:43
狂猫病 @kyobyobyo2

ポール・アレン殺害事件においても、探偵キンボールから強い疑惑の眼を向けられながら、ベイトマンの予想外のところでまたも誤認によるアリバイが成立、難を逃れてしまう ベイトマンにとって単純に喜べる事態ではない ポールのみならず、誰にとっても自分は「どうでもいい」存在だったのだろうか?

2020-06-07 23:46:36
狂猫病 @kyobyobyo2

ベイトマンが婚約者イヴリンに別れを告げるのは、自身が守り続けてきた「社会規範」に見切りをつける表れだ 何も知らないイヴリンは社会規範からの呪縛から逃れられず、「恋人から突然別れを切り出された女」らしさを忠実に守って声を上げて泣く

2020-06-07 23:53:37
狂猫病 @kyobyobyo2

現実と妄想の殺人が混交する中で、ベイトマンは弁護士に自身の犯行のすべてを告白する 積み上げてきた自身の社会規範への適応の努力は崩壊するだろう だが告白するベイトマンの表情が清々しいのは、これにより自身のアイデンティティが「殺人者」として確立することを確信しているからだ

2020-06-08 00:01:09
狂猫病 @kyobyobyo2

『悪魔のいけにえ』のレザーフェイス、あるいはテッド・バンディのような伝説的な殺人者に並び称されることをベイトマンは夢想しただろうか しかしその目論見は、自身の狩場であったポール・アレンの部屋が何の痕跡もなく清掃され隠蔽されたことで、あっさりと崩れてしまう

2020-06-08 00:05:47
狂猫病 @kyobyobyo2

そして大罪を告白した相手の弁護士ですらベイトマンを認識することはできず、果てにポール・アレンはロンドンにいたとまで告げられる ここに至り、パトリック・ベイトマンは真に自身の敗北を悟る

2020-06-08 00:09:35
狂猫病 @kyobyobyo2

語るべき内面も苦悩する内面も、自己と他者とに明確な境界をもって存在しないことを彼は認識する 残されたのは強烈な無関心と、アイデンティティを喪失した鋭い痛みだけだ 冒頭で語られたようにパトリック・ベイトマンは抽象的な存在となり、彼の苦闘を眺めた観客の内側で、朧に漂い続けることだろう

2020-06-08 00:29:58