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2020年9月11日

Educationとその誤解

education 大久保利通「教化」、福澤諭吉「発育」、森有禮「教育」
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リンク educationの語義をめぐって - 学校教育を考える educationの語義をめぐって - 学校教育を考える educationの語源は,ラテン語のe-(外へ)+ducere(導く)というものであって,子どもに内在する可能性を引き出すことだというふうな説明をよく耳にしてきたし,それを疑うことはこれまでなかった。ところが,ちょっとしたきっかけでこれに疑問をもち,いろいろ調べてみると,さらに疑問は深まってきた。educationの語源には,ラテン語educereとeducareというふたつの動詞をあてはめることができるようである。educereのほうは手許のLewisのElementaryLatinDictionar 3 users
なかッち🎨破天荒先生 @nkc_papa

日本語で「教育」 英後でエデュケイション 仏語でエデュカション ラテン語でエデュカチオ 元は古代ローマのエドカト 乳母って意味らしい エドカト・ヌトリクス 乳母は養い ドケト・マギステル 教師は教える なんて言葉もあるらしい。educationは養育とか子育てって意味の方が近いみたいね。

2020-03-27 01:27:36

「〈教育〉educationとは、ラテン語の「引き出す」に由来するコトバであり、人間の可能性を外からの働きかけによって引き出すことを意味する……。本誌の読者ならば、こんな説明を聞いたことのある方も多かろう。ところがイヴァン・イリイチによると、これは誤りであり、「教育学上の言い伝え」に過ぎない。「子孫の教育(educatio prolis)とは、ラテン語の文法で女性主語を要求する語である。それは雌犬や雌豚であろうと、人間の女であろうと、食物を与え育てるという母親の仕事を意味する」(イリイチ[1982:104])。確かにこのコトバが「引き出す」にあたる意味をもつことがないわけではない。しかしその場合の「引き出す」は、たとえば「産婆が(新生児を)引き出す」のように、純然たる空間移動に過ぎないのである(森[1993:28])。 」

教育改革の基礎としての〈近代教育システム〉批判
橋本健二(静岡大学助教授)
http://www.asahi-net.or.jp/~fq3k-hsmt/ronbun03.htm

「アリエス(1983)によると、中世には現代の教育という行為を示す 2つの違った観念が認められる

第一に、見習奉公という目的での教育行為である
第二に、学習、教授といった、知恵の伝達行為としての教育である

まとめると、社会の「よき習俗」を伝えていくという教育行為、そして「学校での知恵」(p185)の伝授といった教育行為という 2つの教育観念が存在したとなる
この 2つの教育観念の存在を示す例として、アリエスは W・フォン・ヴァルトブルクの辞典を紹介している。その辞典によると 1527 年に education という言葉が現れ、人文主義的教育や一般教養と共に広まったと記している。その時には、education はinstruction(知恵の伝授)と対立する言葉として使用されている。しかし、1680 年に出版されたフランス語辞典には、教育が「人びとが子どもを育て教える instruire 方法である」と説明されているように、education と instruction の区別は消えていった。そして、18世紀に入ると社会の習慣を伝達する行為としての教育は、学校の発達に伴い消えて行く」

資本主義社会における education としての教育を求めて ー各市民の教育者的責任の考察
Searching for Education under Capitalism:
Discussion on Every Citizen’s Responsibility as a Teacher
Kyushu Communication Studies. 2006. 4:9-29
©2006 日本コミュニケーション学会九州支部
http://www.caj1971.com/~kyushu/KCS_04_Hirano.pdf

「Instruction 概念の内包するものは、「身だしなみ」、宗教的義務や徳育を対象とする。『道徳感情論』においても前稿で『国富論』にみた特徴を持つ

education 概念については、discipline や exercise などと併記される箇所が発見された。また、「読み書きかぞえること」に対象を絞って用いられている箇所もみられた。アダム・スミスにあって education(教育)と、discipline(ふつうは訓育、規律)または exercise(訓練)とは区別されて使用されていたのである。スミスにおける education 概念は、「訓育」と対をなす「知育」を意味」

「ロックやルソーなど古典近代期の education 概念は、知育、徳育、体育、美育といった様々な領域を含み込んで構成されていた。これに対してスミスの education 概念は、訓練や規律を含みこまず、それらとは異なるものとして考えられていた」

アダム・スミスにおける道徳哲学論
平岡さつき Mar.2008

https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/7241/1/2008-hiraoka.pdf

education と教育という用語

中野ヤスオ@ARI @yasuoyasuo

【“Education”は「教育」ではない】 Educationとは本来職業技能の訓練の意味だったよう。学校的に知識を「教えて育てる」日本的教育はEducationではなかったのだ。リーダーの指導は、「教育」よりも実践を通じて「育むを成す」Educationでありたい。 blog.livedoor.jp/goodimpact/arc… #毎日リーダーシップ

2020-08-27 12:02:00
リンク 「常識の上の非常識」 “Education”は「教育」ではない : 「常識の上の非常識」 システム会社に経営という立場で関わり3年が経とうとしている。執行機能として約50名ほどの組織を預かる中で、最も考え方を改めさせられたのは、「人」に関する諸々である。学生時代も含めて、自己成長や目標達成に高い意欲を持つ仲間たちに恵まれたせいもあり、それは社会人
石部統久 @mototchen

“Education”は「教育」ではない 職業能力開発総合大学校 田中萬年 tetras.uitec.ac.jp/files/data/199…

2020-09-11 14:52:09
田中萬年 @T10000nen

正しい学びの再考 根本的に「教育」は西洋の"education" ではありません。 "education"は能力開発が近い概念です。その「能力」には職業に関する能力が入ります。 正しく西洋のeducation論を学び直す必要があります。 「明治教育の呪縛-誤解させられてきたいきさつ-」noukai.stars.ne.jp/custom6.htmlご参照 twitter.com/nusubito_hana/…

2019-06-09 05:38:01

「educationという英語の翻訳語を巡って大久保利通と福澤諭吉と森有禮が論争したという。その中で大久保は「教化」が望ましいと主張し、福澤は「発育」が適訳であるといい、森有禮はその間をとって「教育」とした。」

「「教育」というコトバは…
日本でも江戸時代中期以降に用いられることもあった。しかしその語は儒教の精神に基づき支配階級だけに用いられ「自分が修養をつんで徳を身につけ,周囲に影響を及ぼす」という自動詞として用いられたのであり、これに対して明治以降になるとそれは一般の庶民に対し政府がおこなう同様の行為を意味する他動詞で用いられるようになる(田中2006:77)」

「英語教育」という思想 「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成
The cultural politics of "English language education" in modern and postmodern Japan
https://ci.nii.ac.jp/naid/40016607246

人文・自然・人間科学研究21号
(2009年3月) - 拓殖大学 31p

SankeiBiz @SankeiBiz_jp

【福沢諭吉は異議を唱えていた 訳語が違えば日本も変わっていたかもしれない】 「education」の日本語訳は「教育」ではなかった? sankeibiz.jp/econome/news/1… #教育、もうやめませんか #福沢諭吉の教え #SankeiBiz

2019-06-15 21:50:00
リンク SankeiBiz 【教育、もうやめませんか】福沢諭吉は異議を唱えていた 訳語が違えば日本も変わっていたかもしれない 我々がサイエンスに特化した教育機関を設立する目的のひとつが「学び方」のアップデートである。学びとは人から教わるものであるという考え方から、自らが多様なアプローチ… 1 user 718
田中萬年 @T10000nen

福沢諭吉は「教育勅語」渙発6年前の1884年の「政事と教育と分離すべし」で「政教の二者を分離して各独立の地位を保たしめ、…一国全体の力を永遠に養うにある」と主張した。そして、1889年に発表した「文明教育論」においては「教育ははなはだ穏当ならず…発育と称すべきなり」と主張した。 twitter.com/hahaguma/statu…

2019-05-12 05:57:25

「学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違(たが)わざるもの幾何(いくばく)あるや。我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。」

福沢諭吉「文明教育論」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/50553_37053.html
「時事新報」時事新報社、1889(明治22)年8月5日

リンク www.jstage.jst.go.jp 「教」意考 J-STAGE
リンク www.jstage.jst.go.jp 戦前・戦後の「教育」概念への問い J-STAGE

日本独自の井上哲次郎「人格の完成」

石部統久 @mototchen

「「人格」といふ言葉は比較的後でした。初め『哲学字彙』を作る頃にはまだ正確な訳語が無かつた。中島力造が「パーソナリティー」を何と言つたらよからうと私に言つた。この時私の頭に人間の品位品格といふことが頭に浮かんだので「人格」がよからうと答へ」 井上哲次郎 kokugosi.seesaa.net/article/284252…

2020-09-11 13:03:51
リンク kokugosi.seesaa.net 精神科学の訳語(明治事物起源 第七学術): 日本語史資料の連関 精神科学の訳語(明治事物起源 第七学術),日本語史資料の連関を目指す。ただし、現在は、http://kokugosi.g.hatena.ne.jp/kuzan/へ移行。

「教育について一言すれば、教育の目的は道徳的人格者をつくるにあるけれども、それはけっして国家的民族的要求と無関係のものではない。人格実現はその特殊なる国家的民族的関係を離れてなし得られるものではない。やはり特殊なる境遇に適応したる実現の方法を採らなければならぬ。それであるから道徳的人格者をつくるにあるといっても、けっして個人主義的の意義ではない。やはり国家的民族的の関係を有するもの、広くいえば、社会的関係を有するものでなければならないのである」

「教育は人格を陶冶《とうや》する方法であるが、人格を陶冶するにはその被教育者の投ぜられたる特殊の境遇事情に適応することを必要とするのである。それゆえにわが国の子弟を教育するにただちにわが国と境遇事情を異にする欧米の方法をもってすべきではない。わが国においてはどこまでも伝統的の日本精神をもって指導原理として教育を施さねばならぬ。ただし欧米の方法は慎重に取捨してこれをおのれに資することを期すべきである。」

「人格者は極めて稀なる場合であるけれどもほとんどそれを完全に実現して絶対無限の意識状態に到達したのである。それは孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、そういう後世に模範を垂れた古今の聖人である。聖人といえどもその人格が絶対的に完全なりや否や、なお研究の余地があるようである。けれども、比較的によく道を体現し、人格を完成したものとして、長く後世に模範を垂れたものというべきである。この観点からいえば、孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、みな人格修養上最好の実例として仰慕すべきところである。」

明治哲学界の回顧 04 結論——自分の立場/井上 哲次郎 - 2

https://www.aozora.gr.jp/cards/000420/files/47844_31646.html

「彼は、個人個人の「人生の目的」を「人格の完成発展」と位置づけているほど、人格という言葉を重視している。ただし、人格を称揚しつつも、その中味については曖昧さが残っている。人格概念には、そのとき次第、その運用次第でいかようにも内容が決められる柔軟性もしくは無節操さが残されていた。彼の人格主義は、人格の名の下にあらゆることが可能になる御都合主義だとも言える。
そして、そのように曖昧な人格概念にもかかわらず、いや人格概念が曖昧だからこそ、彼は、この単語がややもすると「社会とは切り離されたところにある個人」に偏って理解されかねないことに極めて警戒的だったのである。」

自己実現思想における個人主義・国家主義・神秘主義
ー人格概念の多元的展開に関する試論的考察ー
Individualism, Nationalism and Mysticism in the Ideas of Self-actualization and/or Self-realization : An Essay on the Multiple Development of the Concepts of Personality
佐々木,秀和
10-3月-2008
宇都宮大学教育学部紀要
第1部58号
265-280

http://hdl.handle.net/10241/00004637

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