多分、政治家の方々は、 1)必要条件と十分条件を理解してない。 2)定量的・科学的な思考ができていない。 それは人を説得することばかり、やっているから ではないでしょうか。 例えば「飲酒・会食で感染が広がる」とは、十分条件として科学者が言ったのだろうけれど、それは必要条件ではない。
2021-01-22 22:56:31【例えば「飲酒・会食で感染が広がる」とは、十分条件として科学者が言ったのだろうけれど、それは必要条件ではない】とは、どういうことか。この命題が正しくても、裏命題「飲酒・会食しなければ、感染が広がらない」は間違いということだ。 分かりにくい場合は、この図が参考になれば幸いだ。 pic.twitter.com/JdnXmLzyMn
2021-01-23 00:30:28@y_mizuno 水野先生、それは論理則の誤用ではないかもしれません。拙稿をご笑覧ください。 災害情報の裏命題:リスク情報が安全情報として理解されるメカニズム ccn.yamanashi.ac.jp/~yhada/_userda…
2021-01-23 11:16:24@y_mizuno 社会心理学者の山根一郎(2003)によれば、「一般に「pならばqである.今pでない」という条件の時,「ゆえにqでない」という結論を真と判断してしまう傾向について,それは論理則の誤用なのではなく,元命題が真ならば裏命題も真とみなせることが現実場面で「有効」であるからにほかならない」
2021-01-23 11:17:42@haday1972 なるほど、コメント、ありがとうございます。 面白い論点で、参考になります。 私はご指摘に(たぶん)賛同すると思いますが、他方で、私の条件設定は別です。政治家が政策提言に当たって、勘違いして欲しくない。そういう論点。現実は複雑なのに、それを単純化または勘違いしないように、という。
2021-01-23 11:51:57@haday1972 @y_mizuno これはGeisとZwickyのOn Invited Inferencesという論文が有名です。両名の名前で検索するとPDFが見付かります。例文がなかなか面白い。 「大人しくしていないと明日映画に連れて行かないよ」 しかし逆は必ずしも真ならず。大人しくしていた子供が映画に連れて行ってもらえるとは限らない。
2021-01-23 12:54:57@haday1972 @y_mizuno 現実はしかし「逆も真」の場合が多い。大人しくしていた子供は映画に連れて行ってもらえる。これが多くの人が必要条件と十分条件を混同する理由ではないかと思う。 なお政治家の弁論の目的が真理の探究ではなく大衆の説得にあることはアリストテレスが詳しく論じています。 amazon.co.jp/dp/B07JYNGLNF
2021-01-23 13:01:09@haday1972 @y_mizuno ギリシア語原文と英訳はネットに転がっています。以下、英訳からの私訳。 「(理由として)次に、ある種の人たちを説得するとき、たとえこれ以上にないほど正確で系統だった知識があったとしても、彼らをそのような知識を用いて説得するのは簡単でないことに気付くはずである。」(続く)
2021-01-23 13:03:46@haday1972 @y_mizuno (つづき)「系統だった議論は論理的に厳密な証明を用いるが、そのような人たちの場合は論理的な説明が通用しないからである。」 なお英語のrhetoricは演説者を意味する希語のrhetorが語源です。つまり政治家はlogicではなくrhetoricを用いるのです。日本語では「嘘も方便」と言います。
2021-01-23 13:13:17@EbeTadayuki @haday1972 その通りです。 その上で、日本人の問題(私を含む日本人の)というのが、まさにそのRhetoric(修辞学)を学んでいないこと、というのが私の持論です。 前も紹介しましたが、英国に留学した学生が、しっかりRhetoricの授業で単位を取って帰国していて、私は大いに感心しました。でも例外中の例外。
2021-01-23 14:24:48関連まとめなど
【ハーバードとFBIで習う「最強の説得法」とは?】 相手を自分の望むように動かす方法があった: bit.ly/1QzMkbH pic.twitter.com/qJYoxuJ5h3
2015-06-16 09:58:28[注目記事]ケンカを避け、議論を発展的にする方法とは? - ニューロビジネス思考で炙り出せ! 勝てない組織に根付く「黒い心理学」 渡部幹 bit.ly/1TPn8Ph
2016-03-02 12:30:02プロフェッショナルと同様にしばしば専門職と訳される言葉にスペシャリストという言葉がある.後者はある一定の領域を深く研鑽した者を指し,前者に包含されることはあってもイコールの関係ではない 「米欧合同医師憲章と医のプロフェッショナリズム」 acpjc.naika.or.jp/jpnchap/Pro.ht…
2012-12-01 06:24:59「イマニュエル・カントは最後の著作『諸学部の争い』で、中世モデル以来の大学を、法学と医学そして神学の上級学部と哲学の下級学部に分けられているその意味を、批判的に分析しました。上級学部の三つは、いわば国家システムが社会を統治する三つの基準を示している。人間社会を統治し計る基準は法学。身体を統治し管理する基準は医学。人間社会を越えた世界を統御するのは神学。例えば、何かの技術がある。それが何の役に立つのか、良いか悪いかと問うときに「健康によい」とか「精神にうるおいを与える」とか言えば、社会的な合意が獲得される。となるとこれは、最終的に医学の領域となるわけですね。あるいは「泥棒してはいけない」というのは法学の領域である、と。これらの三つの分野は、国家があらかじめそのシステムに組み込んでいる正当化の三つの領域を代表している。大学はそういう正当性を与える理論や権威を勉強する場所なのです。しかしながら、下級学部として位置づけられていた哲学は――そこに芸術も入れていいでしょう――そうした社会のプログラムに組み込まれ得る目的に基づいていない。ではそれは必要でないか? という論争があった。それに対する応答が、カントの『諸学部の争い』です。 簡単に言えば、以上の法学、医学、神学という三つの学部は、既存システムに対しての合目的的な判断、つまり合システム的な判断しかできないということです。すると、このシステムそれ自体の良し悪しの判断はどのようにやるか? そのシステムが機能不全になったときにどうするか? 法学、医学、神学は通常の技術(学部)よりも上位ではあるけれど、規定的判断を前提にしている。であれば、規定的な技術を習得させる専門学校の理論編くらいにすぎないことになる。ところが哲学は、こうしたそれぞれの技術内の都合、規定的判断、すなわち突き詰めればそれぞれのシステムの効率、エコノミー、利害に作用されない。いかなるシステムの都合からも離れて判断できる。反対に言えば、下級学部としての哲学は、すべての技術の基礎を学び直すことで、それを問い直すことができる、哲学部のなかにはすべての専門領域が含まれているというわけですね、大学の中の大学だと。哲学だけで大学であると。 それ以外の上級学部、法学部、医学部、神学部は既存の制度を前提として、それを成り立たせる概念から規定的に延長される規定的な判断しかなしえない。」