演劇における他者-無意識、イメージ

演劇においては「上演」とは副次的なものではないか?理念的には「観客は必要ない」のではないか? この様な問いかけから始まった、演劇における他者、を巡るツイートのやり取り。
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27時間後

横田宇雄 @yokota_takao

@kenken_sebatex 日にちが経ってしまって、申し訳ない。是非とも、関係各位の人たちにも入ってもらいたい議論ですね。「背負う」という表現をしたけれど、「物質の歴史性」(その定義は、確定しなくてもいい、何となくですが、わかります)を「背負う」という作為性が、(…)

2011-07-28 23:30:07
横田宇雄 @yokota_takao

@kenken_sebatex 「物質の歴史性」を「背負う」ということは、「作為」的に聞こえる。しかし、これを「行為」とは、考えるわけにはいかない。「行為」は、「物質の歴史性」を「背負って」いる状態で起こるのだから。そうだとすれば、この「作為」は、関係論的にどう説明するのか?

2011-07-28 23:31:57
横田宇雄 @yokota_takao

@kenken_sebatex 僕はここらへんの「作為」を、きっぱりと「客観性」「客体」と割り切ってしまうけれど、恐らく行為主体には属さないものであることは確かなはず。「背負う」とは受動的な動詞なのだろうから、このリュックの紐のように主体に絡みついてくる概念をどう解消するのか。

2011-07-28 23:35:05
横田宇雄 @yokota_takao

ちょっと言葉が足りなかったので、ケンケンツイートをみなさんに。基本的に、ケンケンの姿勢に、賛同できるんだけれども、賛同してみて、同じ地平に立ってみると、「物質の歴史性」ってなんだ?と、対象を見失ってしまった。関係論を考えた場合の「客体」の定義が、まだ曖昧だ、と感じた。(補足)

2011-07-28 23:42:02

15時間後

kenken @kenken_1987

.@yokotatakao 時間が空きましたが返信。背負う、と表現したのはまずかったですね。完全に主体的、能動的なモノではないので。ただ単純に客体から影響を被っているだけではない。客体に変化を及ぼす作用も考えなければならない、つまり創造性の領域を。

2011-07-29 14:36:39
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao つまり我々は、客体から影響を被る受動的側面と、影響を及ぼす能動的側面を分けて考える訳にはいかない。この発想が、後期ハイデガーやメルロ=ポンティ、あるいはフーコー-ドゥルーズの「」の概念につながる訳です。主体は世界を織り込み、世界に織り込まれている。

2011-07-29 14:40:32
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao と、こう言うだけなら簡単で、常識的なレベルを抜けられない訳ですが…ここから僕は、結局「主体」の哲学へ回帰する、と言いたいのです。単に物質の関係を問うだけなら襞などという概念を持ち出す必要はなかった。織り込み織り込まれる主体のあり様を考える必要がある。

2011-07-29 14:49:23
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao (当たり前の様に聞こえるかもしれませんが、それだけ哲学史的には「主体」と言う事にためらいがあった、という事だけはご理解ください。)

2011-07-29 14:50:20
kenken @kenken_1987

@yokotatakao ああ、「物質の歴史性」への言及も勿論要ります(だから「何となく分かる」で済ませられないんですよ!笑)が、ここはとりあえずは大問題にはならないだろうと考えています。いずれ精緻に見なければ、とは思っていますが…

2011-07-29 15:03:26
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao 完全な物質性と、何がしかの方向=意味を持つ主体との差異は、無機物-植物-動物-人間と考えれば程度の差異とも言えますが、無機物と人間の差異がどこで発生したかと考えると、これは「魔術的」であると言うより他ない(初出は分かりませんがサルトルもそう言ってます)

2011-07-29 15:12:18
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao 話が広がりすぎた感がありますが、まぁ我々は、主体と客体の、あるいは精神と物質の境界画定を求めるのではなく、それらの差異、の発生について問わなければならないだろうという事です。そしてその手がかりとして、イメージの領域への接近を試みるという…

2011-07-29 15:19:37
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao 話を戻しますと、ここで重要になるのが他我認識であると思います。ただ、それは現前している他我(そこついては、「他我認識の構造」研究に頼るとしましょう。そんなのあるのか?あるだろうけど)に留まらない。事実として世界を共有している(筈の)他者が問題になる。

2011-07-29 15:32:38
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao …まぁ書いていて、やはり現前している他我を認識する事が、「他者一般というイメージ」に先立つ、という気がしてきました。そうすると、僕が最初に措定した「俳優一人だけの(理念としての)演劇」こそ副次的なものであるという事になりますね

2011-07-29 15:40:29
kenken @kenken_1987

.@yokotatakao ただこの場合、ア・プリオリな他我認識に直接結びつく「行為」は、「反応」でしかなく、受動的な側面が強い様に思われる。行為という言葉に、「何かしらに差異をもたらす」という価値を見るなら、この「行為」は行為とは呼べない…?いや…

2011-07-29 15:53:32
kenken @kenken_1987

自分で「観客=他者を想定するのであれば、これはやはり現前における関係性ではないのではないか」と言っておきながら、他我認識こそア・プリオリな気がしてきたみたいなツイートしてしまった。二つの記述は矛盾するか否か。やはり他我の認識構造を研究する必要があるのか。

2011-07-29 16:31:45
kenken @kenken_1987

僕は他者との最初の遭遇という「起源」を想定してしまっているのか…?

2011-07-29 16:42:03